紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


言葉の柵

暑くなりはじめる時期は身体がつらい。というのがあらためての実感。気候に体調を合わせるのに通常より時間がかかるのだと思う。それでも普段と同じ生活をせねばとやるが、自然と無理が出る。それで気持ちにも余裕がなくなって、イライラしてしまうのだった。

というのを脱したけれど、職場に行ってみたら、絶対体調不良でイライラしてるじゃんって人がいて、なんだかなーってなったよね。自分もとおった道だったけど、それでも些細なことで怒るモードになって(いつもなら多分怒らないことで)、なんなんだーって。

今月の頭くらいに申し込みが書けない書けないとなっていた研修会に行ってきた。日程はまだあるのだけど。

詳細は述べずに書くけれど、"意識的"と"無意識的"をどうあつかうかという問題があって、枠組みやルールは言語ではっきりと示されており、それは"意識的"だと思った反面、その内部では(自分の)自然を発揮する(無意識的でいる)ことがゆるされるというのが、相反するようで興味深かった。

本来ならば無意識の範疇にあったものを、言語化して外側へ出してやることで、無意識の負荷が減って、心のままにやれるのかもしれないと思った。ルールがはっきりしているので、他者も逸脱を注意しやすい。これは、言語が上手にはたらいている例だと思えた。

自分のつくった柵の中で遊ぶ。不自由なようにも思えるが、つねにリミットを外し続けろというのは、向こう見ずな提案であろうから、一般的にはそのくらいがいいのかもしれない。アメリカでは、子どもたちの庭遊びも、柵で囲われていたり、内庭であったりして、外側へは出られないようになっているらしく、発想が自然とそうなるのだろうと思った。わたしは山を駆け回って育ったので、制限されない遊び場が当たり前だと思うのだけど、それはまあ。まあ。

たとえば話し合いのルールとか。人の話をさえぎらないとか、とりあえず賛成するつもりできくとか。マインドをオープンにして、人も意見も受け入れるのですというのをフムフム聞いていたのが、最後の最後に特別顧問の先生の特別授業がはじまり、その話が要領を得ないし長いし眠いし長いしで、その先生を受け入れる気持ちに全然なれなかったのが、それはそれで面白かった(と思うしかない)というのに全部持っていかれたのだった。