紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


闇の前にひとり、つながっている

ものごとにはかたちがあって、カッチリと長方形とか球体とか少しとげとげしてますねとかいうのと、なんだか不定だけど「ある」ことだけは確かで、においとか手触りのようなものでしかあらわせないものとがある。と思った。

かたちがハッキリしているものは、わかりやすくて、態度が決めやすくて、書きやすい。一方でかたちのないものはともすれば忘れられて、「ない」ことにされてしまうことも多い。その後者をつかまえて書こうとするときは、暗闇で目を閉じてイメージが浮かぶのを待つ(これは比喩)。鼻から吸い込む空気にそれが含まれていますように、湿気の中にそのかたちを少しでも感じられますように、というような。それをがんばってつかまえて、しかしわたしはそのものごとをちゃんと伝えられるのだろうか。伝えられているのだろうか。というのは書き手の問題。不定のものにかたちを与えるべきなのか。というのは哲学の問題。というような。

つまりは現在わたしが書きたいことについて、わたしは言いよどんでいるということなのだけど。

話は変わるが、存在するとは本来的にペシミスティックなものなのではないか、というようなことを考える。ものごとがひとりで自立しているときに、それを観察して記述して、するとそれは自然とソリッドな形があらわれ、泣きはしないぞという顔をして、我慢するように無言でうち立っている。イメージ。哀愁がただよい、存在とは悲しみなのだという気がしてくる。

ものごとがオプティミスティックになるためには、他の存在が必要で、なにごとかとつるみ、関係性の中で笑いが起きてくる。緊張がほどけ、弛みの中の親しさが明るい空気を連れてくる。

そう考えてしまうのは、そもそものわたしがネガティブな人間だからかもしれない。もしかしたら、(ポジティブな)だれかの心のうちでは、すべてのものが笑いかけ、陽気でいるのかもしれない。でもそれはやっぱり、その明るいだれか(主体)に「笑いかける」関係性の話題に還元できるのではないか。

遠い人のことを考える。その人とは関係があるようで、でもやっぱりない。なにか言いたい気持ちもあるし、しかし伝えることはなにもない。今さら取り巻きのひとりにはなれなさそうで、もやもやばかりが気持ちを覆っている。

夜の闇に向かって、わたしは息を吐く。だれにもきかれない言葉を書きつける。目を閉じて、空気を吸って、見極めている。静かな作業だ。実際に会ってしまえばどういう顔をしていいのか、できるのかわからない。ので。ただ、少しでも自分の考えを漏らし、空気に混ぜておけば、いつかはその人に届くのではないかという気がして、その人も闇に向かって息を吸い込んでいればいいのにと思って、そんなようなことを書いている。

夜更けにホウレンソウをゆでる。ニンジンからはナメクジが出てきた。近所のスーパーの地元の農家の皆さんのコーナーで買ったやつ。ティッシュで包んで窓のところまで持っていった。柔らかいクシャクシャを振るといつかナメクジはいなくなった。レジを通って我が家までやってきたナメクジ、わたしはこいつを買ったのだと思い、しかしわたしが買ったのは野菜と思い直した。