紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


うまれてしぬ(しんでうまれる)

このまま人生どうなってしまうんだろうと思わないことはない。だって刹那的だものね、生活。とはいえ直せる気もしない。取り込みなよと言われるも、さっき干したばかりなの、洗濯もの。部屋の中でもまあまあ乾くくらいには近づいている、夏。

好きな作家が旅についてきかれて、こう答える。

「旅には二つしかない、あちら側にいくこととこちら側にくることの」

つまり死ぬことと生まれること。このふたつが旅であるのだ。三途の川(のようなもの)を挟んで此岸と彼岸。越境。わたし達は生まれてからずっと、あちらへ行く旅の途中ということだ。

でもこれは考えてみれぱ、類似がたくさんあって、たとえば日々の睡眠も、眠ってしまったそのあとのわたしはどこに行くんだろうか。あちらに行きかけてはいないだろうか。肉体はそのままそこにある(はず)、意識はどこに行ったのか、消えてしまったのか。気絶のような睡眠のあとに、まったき空白(色的には黒なので空黒って感じだ)からの復帰。世界はそこから突然再開する。でもこれ、「再開」なんだろうか。

ここまで書いて思い出したのが、事故で数か月気をうしなっていたという知人のことだ。意識不明の重体からいくらか経って彼女はこちらに戻ってきた。眠っている間どうだったのかときけば、「とにかくたくさんの夢をみていた」とのこと。ずっと映画を観ていた感じなのだろうか。目が覚めて、それこそゼロからやり直してる。彼女は帰ってこられたけれど、そうでない人もいる。そしてその人たちの話をきくことはできない。

そうそれで、眠ってしまったら次に目が覚める保証はどこにもなくて(とはいえ、朝が来ることは経験的に知っているのだけど)、今の自分が責任をもてるのは、今の自分だけ、ということになりそうだ。江戸っ子の言葉で「宵越しの金は持たない」なんてのがあって、そのときにあるお金をその日のうちに責任もって使ってしまうってことなのか。何かを残しておくのが不安だったのだろうか。

その一方で、江戸の人たちはツケで買い物をさんざんしていて、その回収は年末にまとめて行なわれる。だから、年末の大変さを書いた商人の話もある。宵越しの金が足りなかったら未来の自分から借りてつかうのは未来志向、なんだろうか? ドラえもんでそんな道具があったような。

というようなことを考えたのは、クレジットカードで買い物をたくさんしてしまったからだ。出歩くんじゃないよ、給料日前。雨の予報にびびった友人がBBQをキャンセル、そのおかげで浮いたお金を握りしめて美容室に行った。玉突きヘアカット100。もう二か月、あれから二か月。さっぱりしたし、帰りにたくさん買い物をしたのだ。けっきょく雨は降らなかったね。

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気の合う美容師はみんなどこかへ行ってしまう、でおなじみのわたし、懐いた美容師はふたりしかいないのに、2/2でどこかへ行ってしまう。とはいえ、今回は産休とのこと、来年また会いましょうと約して別する。僭越ながらお腹に手かざし、気をおくるフリ。「神秘ですよ、神秘!」

現在にしか責任はもてないと思っているくせに、将来の自分(の懐)をあてにして買い物をしたわたしは、やっぱりもうちょっとは現在の延長線を信じている。このまま変わらぬ調子で歩いていけることのありがたさ、そして旅路の危うさ。美容師のお姉さんから「うまれる」その人にハロー、世界。到着した瞬間からはじまる旅に絶望とそれより少し多くの希望を。