紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


エラーの日々

慾望の一に考えていることをそのまま文章にしたいというのはずっとずっとあって、それはサア書くぞとPCに向かって書くのとはやっぱり違う。瞬間瞬間に入ってくるすべての情報をその中から気になったことを頭にうかんだ惹句をならべたそれはなめらかで飽きない音楽のようなもの。わたしの頭の中ではいつも音楽が流れている(のか)。

それにつけても人生は膨大。視覚聴覚嗅覚感覚がさらに毎瞬間ごとに存在し続ける移りかわっていく、それを文字という貧相なチャンネルに落としこみたいだなんて愚かに過ぎるというのもわかるのよわかっているわ。そもそもすべての情報を前にしてひとしくあつかおうなんて、狂っちまうような所業ですね。というようなことは以前も書いたし何度か書いているようですけれど、ここまで打ってアレわたしが音楽として書きたかったのはどんなことでしたかと思ったときに、それは百貨店のエスカレーター、まぶしい広告、ケワイの匂いにむせて、文字文字はクリスチヤンデイオールポールアンドジヨーイヴサンローランジルスチユアートアルビオンイプサアユーラカネボウポーラシセイドウ文字にもむせるほごほごほ。さて、読んだ人もわたしと同じように眩眩されましたでしょうか。
ところでこんな情景はよくあるものであって、ただ「わたし」がその時間に受け取りましたという点においてトクベツであり、わたしのヘンアイの対象になるだけで、みなさまにおかれましてはさらには昨日までのわたしにおきましてもなんの意味ももたないワンシーン。そんな個人的なものを自分の中で反響させて楽しみ文字にしたいと願い、あまつさえ衆人環視の目にさらす(こちらはあくまで副次的)なんてとてもとても傲慢なことですねと気づいてしまったのだったよ。この自閉的なよろこび。

しかしまあ日記ってそんなもの。それにまあ他人の思考もそんなもの。なのだとしても。わたしの愉悦と傲慢を天秤にかけて、ギリギリしぼられるような気持ちだったの。これは。

さてわたしはかわらぬ体調で(つまりよくない)、熱は下がったものの、わたしの内部のどこかがおかしいという感じが強くして、生物的にうまくいってない感が。もーやだ、平常な人間をよそおうのがつらい。ワーとか叫びたい。異常な状態であることを知らしめたい。知ってほしいではなく知らしめたいという語をつかってしまうくらいに、これもまた一方的な感じだ。つらくて気持ち悪くて変。これまで健康にあぐらをかいていたことをものすごく反省している(どうせ忘れてしまうだろうけど)。

主観は主観だけど他人が慮れないという意味ではやっぱり絶対で、なんか喧嘩の話とか読むと思うことがあるんだけど、自覚的であるのがえらいみたいな言説があって、まあ大体賛同するのだけど、だからといって「自覚的であるべき」とは(わたしは)言えないよなーみたいなことなんだけど、日記の最後につける話でもないからまたそのうちに。日記を書くのに夢中で書けてない思考がまあまあ溜まってきていてウーム。思考も文章も熟成させたいことが多分にあって、でもそれも日々やさらなる思考の波がさらっていく。