紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


インターネットのあなたに1を送る

パクチーの花が咲いた。ゴーヤのツルが行き場を求めて手を伸ばしパクチーにとりついていた。頃合いだったので摘心(ツルの先を切ること)した。ニカンドラはますます旺盛にはじけるように萌芽。

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最近のわたしの朝は植物たちとお弁当つくりと「まれ」(今期の朝ドラ)で構成されている。いろいろが満ち、むしろあふれていて、光り輝いている。一年に数度あるくらいの調子のよさだ。あれもやりたいこれもやりたい。休日は準備か実行に終わる。しかしこれは過活動ぎみだなとも感じている。身体はつかれているのがわかる。こうした認識は状況のあとに起こるが、以降はゆるやかにバイオリズムはカーブを下りはじめる。経験上。

すべての人がバイオリズムというようなものに左右されるのか、それともわたし(または一部の人)のみがその影響を強く受けるのか、そんなことを考える。個人としては後者なのだけど、それにしては世のみなさまは平気な顔をして生きているように思える。それか内面を隠すのが上手すぎるのか。他人の心情はすごく理解できるときとまったく想像できないときがある。

インターネットもしくはブログの人たち相手にはインターネット的もしくはブログ的なふるまいしかできないことが悔しいときがある。決まりの枠をやぶって、もっと違ったやり方で、個々に、その人にその場合に、適していると自分が考える方法があるのではないか、と。それなのに、手法としてはインターネット的もしくはブログ的なふるまいをしないかするかの0と1しか選べないのだ(のらないことは、結果としては0だけれど、それでは選んだのか選んでいないのかわからない。)。

そんな考えに振り回されて、インターネットは現実と同じなわけはけしてなく、ツールなのだなと打ちのめされる。とはいえ、特殊なやり方を選ばずとも、作法にのっとったときに、その0か1(往々にしてそれは1)をとったときに、わたしは、わたしたちはまだその上に物語を思想を気持ちをまなざしを読み取ることが可能だ(読み取って返された1にまた思いをはせる)。ということに、少しだけれど希望をいだくのだった(これは局地的なロマンチシズムだし、将来的にはなくなる感情だとしても(つまりそんな繊細な人間はいなくなるのだ))。