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紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


なわとび

なわとびをする人の映像をみた。縄の端をつかんでいるのは男性と女性がひとりずつ、せーの、でまわして、画面のこちらから誰かが飛び出していって、その円の中に入る。跳ぶ。殆どの人は次に縄が一周する間に二回小さく跳ぶ。一度目で縄を越えて、二度目は調子をととのえる。人によっては大きく足をあげて一周ごとに一度の跳躍を合わせていた。上手な人はもちろん、うまく入れない人、足がかかって転んでしまったり、も一度挑戦したり。

それでところで、小学校の時分に大縄跳びが苦手だったのを思い出した。輪に入ってしまえば跳べる。そこに行くまで、縄のタイミングを見計らっていくのが難しかった。前の人が入ってから続けて次の回転に飛び込んでいくのがスマートだったけど、それはどうにも簡単にはいかなかった。わたしの番で列は止まり、考えている間に先に入っている人が力尽きた。最初から全員ならんで、そこから縄をまわすのではいけなかったのだろうか。

画面の中の跳躍に、みているこちらの心拍があがるようだった。鼓動がリズムで、わたしは、わたし達は生きているんだと強く思った。縄を結ぶのに技術がいることも頭の片隅で考えた。強く解けないように結ぶには。それは死ぬための知識だった。

会場は強いにおいと大きな音がしていた。屋内とは思えない轟音、たまにきこえる話し声は誰かの発するものか、録音されたものが流されているだけか判別がつかなかった。人影がと思えばそれも映像の投影だったりして、現世にいる感じが強くして、またそれがそのままひっくり返って非現実感をあおっていた。わたしはどこにいるのか、どこへいくのか。みなさんは。

大きな音の中で泣きそうになった。足元には割れたガラスが散らばっていてたいへん危険だった。置いてあるものすべてがわたしに話しかけてきていた。わたしは「こわい」と思った。展示というものは通常は鑑賞を待っているだけで、(こちらになにがしかの感情や思考を抱かせたりはするものの)静かにお行儀よくしているものだ。それを全部吹っ飛ばして、やつらはたいへんに饒舌で、ときに大声で怒鳴られているような気すらした。

そしてそれらはわたし達が忘れてしまっている、あるいは忘れたふりをしているものなのだった。抑圧されたものが無意識の大河からあがってきて、ぺたりぺたりと湿った手をつかって這い回っている。目があう。のぞきこまれる。息がかかるくらいの距離だ。悪趣味といえばそう。でもそれはわたし達なのだった。本当は。生きているとはそういうことで、なくなってしまう方がよほど綺麗で清潔なのだ。本当は。ほんとうは。

ショックをうけて帰る途中、今日はこんな風に書こうとか思いながら、駅に近づくと街が商店街が猥雑に並んでいたのだけど、それは計算ずくの猥雑でにこにこと買い物をする人を包んでいて、ああこれはにせもので、わたしはにせものに帰ってきてしまったと思い、でもしょうがなく作法と慾望にのっとって、現代文明の粋を集めた無添加しゃれおつ系ドーナツを買って、でもそれは先ほど見たものとの対比に途方にくれてしまう。