紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


生きること、が小説になる、ということ

「物語」と「小説」について考えているけれど、やっぱりいつものようにわからなくなってきて、わたしは考えることが苦手なんだなと思ったけど、実は違って、答えの出ないことを考え(てさらに迷子にな)ることが好きなのかもナァと気づいたのだった。

「物語」については前回を参照いただくとして、今回は「小説」について考えよう。最近読んでいる本が二冊あって、それはどちらも「小説」がタイトルに入っている。 

小説修業

小説修業

 

 やっと読み終わった。ふたりの小説家がお互いを褒めながら、小説の歴史やその思想みたいなことを往復書簡の形式でやりとりしている(それでも小島信夫はどこまでも小島信夫なのでにやにやしてしまうし、保坂和志小島信夫のこと好きすぎるやねと思う)。骨太な感じで、ある程度読み書きしている人は読んだら楽しいと思う。小説の書き方みたいな本ではないのだけど、小説を書きたい人(というより書いてる人かな)は刺激されると思ったのでした。

 

一億三千万人のための小説教室 (岩波新書 新赤版 (786))

一億三千万人のための小説教室 (岩波新書 新赤版 (786))

 

それで、やっとこの高橋源一郎の方にいったのだけど、こっちは「あ、小説じゃん」と思ってしまった。「小説教室」というタイトルの小説だ。

高橋源一郎は『さようなら、ギャングたち』の中でも「詩の教室」 のことを書いていて、それを想起させる。「小説の書き方」とか忘れてとにかくぐいぐい読んでしまう(一応、秘訣が20まで書いてある)。

そうそれで、この本のブックガイドに小島信夫が紹介されていて、それで引っ張り出してきているので、二冊ともけっきょくは小島信夫の関係の読書なのだった。

ブックガイドの部分を引用する。

小島信夫の場合、小説も評論も同じ文章です。おそらく、彼は、同じ文章で、手紙も書き、それから、しゃべったりもするのではないでしょうか。要するに、生きること、が、そのまま小説になっているのです。

 高橋源一郎『一億三千万人のための小説教室』(岩波新書) p140

(まねるための)図書として「全部」をあげたいとしたうえで評論を二冊あげて、結局「小説も評論も同じ文章です」と言う。なんてことだと思うけれども、知った人にとっては、そのとおりだと首肯するしかない。事実、先にあげた『小説修業』 の小島信夫の部分がもうそのとおりなのである。

これらの書き手の三人は「小説」というものに疑問をもっておらず(わたしみたいに「物語」がどうとか言い出したりはしない)、まあそんな悩みはとっくに乗り越えてきたのかもしれないけど、文字で物語を記述した「小説」に自信があり、その力を信頼しているように思う。もうそれは好みみたいなものかもしれないけど、とにかくかれらは文字を文章を選んだ。その信念みたいなものもあるかもしれない。

「小説」を読んでいるときに、わざわざ「アッ、これ小説!」って思うことはあまりないのだけど、小説じゃありませんっていう顔をしているものを読んでいるときに、ハッとして「これ小説!」ってなることがある。「小説」以外にも「小説」はひそんでいる。これも「生きること、が、そのまま小説」ということなのかもしれない。

わたしがブログをはじめようと思ったとき。そこにあった日記の文章に「あ、物語だ」と思い、そこに出てくる人やものことはとても鮮やかで立体的に感じられ、身近なことが(というか日記が)「物語」になってしまうということをはじめて強く意識したのだった。それで自分の思うことを「物語」にするためにブログをはじめたのだけど、今となっては半分くらい違うことをやっているような。

難しい試み。わたしがその人のまねをできているかというと、難しい問題である、というかまねはできていない。けど、ブログのことを考えるときにいつもそこに戻る。

また「物語」という言葉に戻ってしまったけど、やっぱりそうとしかあらわしたくない。まだまだ「物語」党だからね。でも小説。ああ、小説。

このあたりで、「物語」と「小説」について書くのはひとまずおしまいにしよう。でもね、「小説につっかかっていく」っていうのは、「物語」のガンジス川を眺めてヤァヤァ言ってるのはやめて、そこから自分でつかみ出したことを書いたりしよう、と。意識していこうと思いはじめているのだ。ということだ。