紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


人間には顔がある

ああだめだなって感じになってる。気持ちの谷に落ちている。これかなって思う原因はたぶんあって、文章も発話も十全に伝わらないということに突き当たってしまったのだ。もちろん、リロンとして、十全に書けない話せない/理解しないということはわかっているのだけど(そしてそれが面白いということも思っているのだけど)、その不全さに焦りを感じて言葉を重ねるのだけど、ことがことなので、言葉で解決できるわけがない。しかし、こんなことは前にもあったということはわかっていて、しばらく前にもそんな期間があって、苦しいつらいとエントリしていたことをおぼえている。すると、そのことに少し安心する。ブログを書いててアリガトーってなるのだ(自分に感謝!)。前より早く立ち直れるにちがいない。そう思えるので楽になる。こういう時は後追いしないで、関係ないことを書くのがいいような気がするね。だからなんかちょっと精神っぽい話をする。

物語は自由で、その中ではできないこともできてしまう。やってはいけないこともできる。傷つけたりなかったことにしたり。現実ではできないことを仮想でも体験することで異なる解決をみたり。人間の精神は現実とは少し違うところにあってただよって、勝手に病んだり気を直して帰ってきたりする。そういうときは人間の意識なんてほんの一部でしかないよなと思って、目を閉じて身を任せたくなってしまうのだ。

昔の作品について思い出していて、あれは自分の殻をやぶるって話だったのかなと合点する。あんなにギミックを盛り込んで、それかぁという感じだけど、「自分になる」というのはそれだけややこしくて遠回りしないといけないということなのかもしれない。

そしてさっききいてたラジオからひろったのだけど、人間には顔があるということ。当たり前なのだけど。観客に背中をそむけるアーティスト。だれにむかって歌っているのだろうか。顔を獲得するのはおとなになることなのだとか、わかったようなことを書いたらまとまるかしらと思ったけれど、およそ正しそうなことは言いたくないのでここで終わる。

とても散文的になってしまって、わたしはすっかり正気のつもりだけど、受け手によっては、オヤと思うかもしれない。しかし、くるっていることもくるっていないことも証明できないのだ。どちらでもいいというような投げ出した感じと、わたしが書き手なのだからそこは指定させてもらいたいという感じがあり、しかし読み手の自由も残しておきたいなとか思ってしまう。ハハ愉快。だね。