紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


十一年目の日記

紙の日記をつけている。数えたら今年は十一年目だった。毎日書かなくていいということにしてるし、気づくと数か月空白になっていることもある。

日々はどんどん流れていくので、最近は一週間くらいまとめて書くことが多い。まとめて書くったって加齢で記憶はもたないし、手帳とtwitterに頼ることも少なくない。外部記憶装置だ。思いつきを記録していって、散らばる星たちを最後にまとめている。

時間は無感情にわたしに流れ込み続け、PCには情報が続々届く。日によるが、頭の中には様々な着想が舞い込み、わたしはそれをつかまえようとするだけで精いっぱいだ。

そして最近は山を登って降りていた。比喩表現。ちくちくする山で、気持ちが荒れた。読む人の興味をそそるような技術は持ち合わせていないので詳細は割愛する。書いてもいいけど、うーん。うんざりするような話だと思う。愚痴だ。

地上にいる今となっては、あれは山だと思えるけど、その時点では盛り上がってなんぼでも書けるようだった。そのもやもやを主題にエントリを書こうと思ったが、やっぱりやめて、ヒナ氏に話をして落ち着かせてもらった。その場に仲間がいるのが重要で、いい相棒がいたら場はどうとでも転がると思えた。そして、かれが考えていること、今までやってきたことの意味が少しわかった気がした。のだった。

次の日の朝は普通だった。波は去り、変哲のない日に戻ったと考えたが実際はそれ以上だった。新しい気持ちがやってきていた。怒りがさめて、すべてに寛容な心持ちになったときに、これが「善」ということなんじゃないかと思った。それは朝の光と同じでまぶしく、カーテンの向こうから射してきていた。

これは数日前のことで、渦中にいるときはとても書けそうもなかった。結果としてわかったことは、その一日の中にとても多くの感情があって、それは人生そのものだということだった。一日の終わりに。日常のひだの中にすべてが織り込まれている。だから、日記を書こうと思う。