紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


しかし社畜

今となってはあの素晴らしい日々。ことお正月。が。というか連休が。素晴らしくてだるんだるんでのびのびであったがために、いざ仕事がはじまってみると生活が一変し、朝は起きなくてはならないし出勤すれば仕事は終わらないし帰って食事をとればもう寝る時間だしというこの現実に打ちのめされる寸前である。しかし社畜。そんな言葉はつかいたくないし、己を形容するワードとして今はじめてつかってみたけれど社畜。なのかなんなのか、身体はスッとその状況を甘んじる受け入れる。こと甘受している。

それがいいのか悪いのかはさておくけれど、仕事の間、つまりPCに向かっていたり人と話していたりとかそんな合間に頭の隅では大変なことが起こっていて、いやそれはちょっと大げさなのだけど、眼前のことや話題に底流する思想のことなんかについて、ぴょこっと誰かが顔を出し、さらさらと何やらささやいてひっこむ。誰かといってもそれはわたしでしかなくて、幼いわたしか老けたわたしの顔をしている。それについて考えたいと思っても、捕まえそこねてしまうことばかり。うまく捕らえたときは手帳にまたしてもさらさらと謎のメモを残す。

そいつは意識と無意識の間ぐらいのやつなんじゃないかと思うけれど、けっきょくわたしが考えたいのはそいつの教えてくれることだけで、それ以外の生活は蛇足なのだと感じることもある。ただわたしは未熟で。というかこの齢になるまでなにもしていないのだからみずから未熟を選んでいるのだぜという皮肉を自分でいれておくが。なにかの議題がある状態の方がそいつは活動的だ。一点に集中しているときに目の端をちらつく影のような。そちらに焦点を合わせようとすると消えてしまう。

一番したいことは二の次におかなくてはならない。そいつの声がききたかったら、なにかをしていないと。そのために。(何かに)"社畜"する。というのもありかもしれない。ただし、程度による。が。