生の遠さと死のイメージの近さ
風邪がなおらなくてごほごほやりながら仕事へ行く。いつものファッションマスク(予防)が今はマジマスクよ。鼻水をズビズバするっていうわたししか参加できないゲームをひとりでやり続けた。
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自転車を漕いでると、すぐに自分が轢かれる想像をしてしまう。交差点に差し掛かったわたしを止まらない車がバーン。もしくは、車道を走っていて転んだわたしを車がバーン。とか。
おぞましいわと思うけど、やっぱりいつもしてしまう。駅のホームで電車を待っているときとか、高いビルの屋上に上がったときとか、一歩を踏み違えた自分を想像。
あるかもしれない、でも可能性0%の自分。
そんなことを考えていると脳がイメージを覚えてしまって、いつかそのとおりになってしまうかもしれない。気を取り直して「生きる自分」を考えようとしたけど、それは難しかった。生きているわたしが「生きてる自分」を想像するのはとても困難だ。それは現在の連続であるから。次にどーなるということが、圧倒的な「あり得べき」としてのしかかってくる。
自分がはかなくなってしまうことのイメージがまとわりついてるわけだけど、いざ生きるということについては、想像しがたく、しかし自分がこうしていることと切り離すことは到底できない。手は届かないのに、わたしはそれをよく知っている。
言葉の上では「生」と「死」は等しいように思えるけど、その間の溝は簡単には越えられない。「生」から「死」へは一方通行で、「死」から「生」が芽生えることはない。両者は全然違うものなんだとなんだか思った。
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いつまで経っても体調がよくならないので、心配した同居人が夕食にダイコンとかショウガとか入った優しい味の料理をつくってくれる。昨日はわたしが味濃い目の肉料理を出してたので、逆だなーと思う。
熱は相変わらずないので、こんなんですよ。再。