紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


わたしはどこにもいない人

今週は続けて書いているけど、最近のエントリはなんか手探り感がある。記事の方向性とか全部ばらばらだと思う。内容の評価は受け手に任せるけれど(最低限、一番最初の受け手である自分が面白いと思うようにしたい)。とはいえ、書き手の連続性を保証するのはほかでもないわたしだわと考える。この一見ばらばらな記事たちは、まぎれもないわたしの手によるものだとどうにかして言うのはわたしなのだ。方法はよくわからないので、考えていく。

読み手にとって、筆者の人格が安定しないと混乱してしまって辛いんじゃないだろうか。その一方で、同じ人間でも見せる部分は場面場面で変わるものなんじゃないのかとも思う。人間(そして文章)の連続性について考察していく(今度ね)。

というわけで、蛇行運転様子見中なのだけど(危ない)、書く気持ちはあるのだ最近。心がウェブログに開かれているというか、書きたいことのかたちがわかってきて、文字にすることができる。文字にした上で、意味不明なのは本当にわたしの力量不足なのだけど。文章の体力がないなぁと思う。頭でっかちな感じ。顔だけいいけど身体が残念キメラ。いつも息切れしている感じがある。ちょっとした短いエントリができないのなら、工夫していくことが必要だ。これも味だから大丈夫って思ってきたけど、その感じに自信がなくなってきている。

上記のようなことを入浴中に考えていたら、すっごく堅い感じになったので驚いている。連続性について考察なんて書くつもりなかったもんね。入浴中に考えすぎるのも考えものだわ。

明日は夜に出かけるのだけど、なんの集まりかっていうとまた説明しにくいナァと思ってしまう。これこれこういう知り合いがいて、その人がこれこれこういうことをしていて、こういう経緯で協力をすることになったのよ、と。

回りくどいことこの上なくて。その内容を関係性でしか示せないのは、そこにわたしの主体がないからだと思い当たった。こういう趣旨の会に行きたいから行きます! ってたぶんわたしの口からは出てこない。ここ数年、「したいこと」なんてわたしにはないのだ。

とかなんとかネガティヴめに入ってみたけど、本当に「したくないこと」には絶対に参加してないので、このグレーゾーンの感じが意外と好きなのだろうなと予感がある。存在が不透明。したいわけではないけれど、したくなくはない、のだ。ややこしっ!

昔、ってか今もだけど、ボランティアとか地域とかコミュニティについて、考え続けていたことがあって、この件はこのへんに関係があるような気がする。内容ではなく、グレーゾーンの感じが。どこにもいないわたしだけど、どこにでもいるような気もする。意識が散逸してきてよくわからなくなる。自分の連続性なんてくそくらえって気分になりますね。