紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


ハッシャバイ

最近は山田詠美を読んでいる。高校の友人が教えてくれた作家だ。

何度も何度も読んだのはこの二冊。

 

蝶々の纏足・風葬の教室 (新潮文庫)

蝶々の纏足・風葬の教室 (新潮文庫)

 

 

ぼくは勉強ができない (新潮文庫)

ぼくは勉強ができない (新潮文庫)

 

 

わからずやの世間にうもれるくらいならひねくれ者でいいやってなったのはこのせいだと思う。にんげんの強さと弱さ。汚さと綺麗さがぜんぶ書いてある。

 

あとはこの二冊。

放課後の音符(キイノート) (新潮文庫)

放課後の音符(キイノート) (新潮文庫)

 

  

色彩の息子 (新潮文庫)

色彩の息子 (新潮文庫)

 

『放課後の音符』あらためて読んで、失恋しても大丈夫だなって思ったり。『色彩の息子』はちょっとサイコな短編集。がっちり書きたいのだけど、どうもうまくいかない。紹介文とかひとつのトピックで書くのは苦手みたいな気がする。

最近はこれらをあらためて読んで、出会い直しみたいになっている。わたしがウェブログで書いてることとか、好きなブログの文章とかとすごく似てる。と思った(でも、わたしなんかより百倍は素晴らしいのだよ)。山田詠美のことはずっと忘れてたのに、こっそり血肉になってた。してた。驚いた。

仕事はまたアウェーの事務所にいる。時期なのだ。

前エントリで書いた彼女に、入籍おめでとうと言えたのだ。言おうと思って、でもやっぱ気が重いと思って、言ってしまえば義理は果たしたことになるのだからと。言ったのは自分のためみたいなものだ。非道い話にも思う。

でもエントリに書いてから、すっと気が楽になって心が穏やかだった。不思議だ。どうでもいいと思いながら優しくできる。ようになる。でも、毎月怒ってることにも今月は怒る気がなくなっていて、それはショックだった。怒ればショックだし怒れなければそれもショックってややこしいことこの上ないが、どうしたことだろう。ぎりぎり残っていた情熱がなくなってるのかもしれない。かすかすだ。

そんな中、会社のいまのマッチョ(イズム)のシンボルと(勝手に)目している人たちと話し合いを持つことになりそうだ。たぶん来週。ぜんぜん。ただの飲み会だけど。そう思ってるのはそっちだけだからな! と思っている。わたし、そろそろフェミニストになっちゃうんじゃないかしら。

事務所のトイレに入って愕然とする。トイレの便座に貼ってある変なシール。おそらくカヴァーの代わりなのだろう。安っぽい色と花柄をしたそれ。洗って何度もつかえる。なんだそれ。強烈な「生活」の空気にやられてしまう。

職場のトイレに「生活」が持ち込まれる。この瞬間、わたしはそれを憎む。その背後にある妥協と馴れ合い。ぬるい手が伸びてきて、気づかない間に身体をからめとる。こんなものに足をとられたくはない。

生活。日々のささやかなよろこび。美味しいものを食べる。きれいなものを見る。穏やかな時間を過ごす。一瞬一瞬を見つめて暮らすこと。美しさ。それらをわたしは愛してやまない。

この生活とその生活は違うものなのだろうか。一方をひどく憎み、一方をひどく愛するということが成立するのだろうか。わたしのものでない、顔の見えないぼやけた幸せは必要ない。綺麗でないもの以外すべて捨ててしまいたいと思った。しかし、わたしはそのシールの上に裸の尻を出して座り、用を足さなくてはならない。こんな「生活」があるというのか。

それでまた、わたしの生活が。たとえば夕食をこしらえる。同居人が歓声をあげる。おしゃべりをしながら食事をし、一緒に片付ける。そんなことも、いつか、この瞬間にでも、訣別すべきときがくるのだろうか。そうなったら、迷わず背を向けられるだろうか。もしくは、開き直ってそのぬるい日々を受け入れるのだろうか。そんなことを考えたりもした。 

美しいものは鋭くきりりと冷たく引き締まっていて、その凍えた世界でわたしはどこまでもひとりぼっちなのだ。そうなったとしても、ひとりで歩いて行こうと思った。

帰り道、空気はずいぶん冷えてきたが、身体を動かしている分には暖かかった。人間は熱いのだ。わたしが熱をもっている限り、大丈夫だという気がした。