紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


子どもと若い人(子ども)

ああもう金曜日なの、というのを四回やって九月が終わってしまう。昨日のこととおとといのことが判然とせず、なめらかに秋がやってきたという季節感しかない。昼間は暑いが夜は涼しいの平均が下がってきて、普段着が長袖になった。

何度目かわからない小説を読んで、静かに涙を流したが、わたしの内面は熱く、登場人物のこと、筋書きのこと、ひとつひとつの文章の運び方、全部が完璧なんではないかとうち震える。言葉遊びのうえ、世界とたたかって死ぬなら本望だ。

ゼリーが食べたいと思ったのだが、市販のものは甘すぎる気がして、粉寒天を買って帰った。砂糖入りの飲料が苦手と思っていたが、ゼリーも苦手になってしまった。脂っこいものも食べなくなったし、肉より魚になってきたし、世にいう加齢の案件は大体に心当たるようになっている(同居人もそんな感じらしい)。こうして、カサカサになっていくのか……。豆乳羹ともいうのだろうか。牛乳の代わりに豆乳をつかって寒天をつくる。

 


DJみそしるとMCごはん / 牛乳かん - YouTube

これを思いながらやります。ウー! サブカルウー!

知人宅に遊びに行った。1歳になる前の乳児がいて遊ぶ。小さい小さいのだが、彼のことは生後すぐから知っているので、大きくなったと思ってしまう。夏前はずっと寝ているだけの彼が、今ではひとりで座り、周囲に並べられたおもちゃを手に取り、親を呼び、わたしをみて、笑い、泣き、生き動いているのは感動的だった。一度抱っこをして、十分強遊んでいたのが楽しかったらしく、その後、地に降りてからもわたしの掌をひき、自分の脇に持ってきて抱っこをせがむ。おお、クレーン現象! 自分のしたいこと、そのためにどうしたらいいのかをわかっている。これは本当にすごいことなのだよと、心の中で言いながら、疲れたからもうやらなーい、とくすぐり誤魔化し、それでも笑う赤子のかわいさたくましさ。

歯もはえて、離乳食をはじめたそうだけど、中心はやはり母乳で、わたしがいた時間の1/3くらいは食べたり飲んだりしていたのではないか。乳を飲んでいても、母親がフルーツやらを食べようとすると目ざとく見つけ、俺にもよこせと要求する。母はこれを食べられないと乳が出ないのだよとぼやきながらも、息子に半分以上食べられて(食べさせて)しまう。これが母性なのかと、知人を前にして種の存続の秘密を見せつけられたような気になる。そりゃあ生き延びますよ、生物。繁栄しますよ、生物。目の前の食べ物はどちらにしろ、子どものための栄養になるのだが、母の身体を通すことを許さない。残酷。野生は残酷。世代交代ってこういうことなんだろうね。ひとりで食が細くなって、「脂とらなくてカサカサー」なんて言ってるわたし(達)の自己完結ぶりよ。(それでも許容される現代社会ありがとうー!!)

職場の人の息子(小学校低学年)が行方不明になって見つかったという話。

いつもは学校のあと、彼ひとりで学童に行く。同僚が迎えに行って一緒に帰るのだけど、迎えに行ったらいない! でひと騒ぎ。学童にいかないで帰宅して、お母さんいないし、えーどこー! で近所で泣いていたらしい。いわく、「小学★年生だから、ひとりで帰ってみたかった」とのこと。親としたら心労すごいのだけど、その気持ち考えたら、すごい冒険で、涙が出ちゃう話だなと思ったのでした。同僚はGPS持たせようかなとか言ってたけど(そのへんは現代社会との折り合いだ)、たまにはひとりで帰ってみる日をつくろうかなと言っていた。子どもたちのやることにはいつも驚かせられる。自分もいつか子どもであったというのに。

若い人についてはあらためて。