紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


どこでもいいからなるべく遠くに埋めてくれ

 


彼方からの手紙 - ビグルモワ

 

ここひと月くらいの懸案が終わった。ということで、ネットの片隅でわたし達がなかったことにされるみたいだ。そうだよ、彼はやる男だよ。したがうこともできたけど、もういいでしょー。

なかったことにする人と同じ数だけ、その人もなかったことにされるのだ。すがりつくのは、ばかみたいだ。わたしにはね。

お心当たりある方もおられるかもしれませんが、まあそんな感じで。該当者がどちらを選んでいても構わないと考えます。人死にがあるとかではないので、剣呑にはならないで。

演劇を観にいった。すごく有名な脚本らしいけど、はじめて観た。

児童劇団だったので、おとなの役も高校生とか年長の子どもがやってた。大道具がほとんどなくて、簡単な装置を大道具小道具に見立てたり、演者が移動させたりするので、風通しが良くて、コンパクトで軽やかだった。ミュージカル仕立てだったのも関係あるんだろうけど。

結婚式のシーンで、感動した人が「幸福になってね」「幸福に違いない」と何度も口にする場面があった。

 今日の倫理学の殆どすべてにおいて置き忘れられた二つの最も著しいものは、幸福と成功というものである。(略)

 古代人や中世的人間(略)モラルの中心は幸福であったのに反して、現代人のそれは成功であるといってよいであろう。成功するということが人々の主な問題となるようになったとき、幸福というものはもはや人々の深い関心でなくなった。

三木清(1941) 『人生論ノート』 新潮文庫(2001)p73 略部分、引用者による

 前日に読んでいた三木清がよみがえり、ああこれは「現代」の話ではないのだと思い(19世紀から20世紀初頭の話だった)、そして幸福と同列に語られる「成功」はこの劇のどこにあるのだろうと見渡した。

確かに成功は、大きなトピックではなく、主人公は幼馴染との愛のために、進学や未来みたいなものを擲っていた。あわや。省略された時間の中で、けっきょくは成功したみたいなことはさらりと言っていたけれど、この人たちにとっては「幸福」が先にあったのだろうと感じた(書かれた当時と現代日本の演者/観客が得たものが同じとはなかなか言えないだろうな)。

そして、愛の果てには死があったのだけど、死者には顔がないナァというのを、なんだかとっても思ったのだった。天使とか出てるわりに、生者と死者の分断がすごかった。絶対に動かせないもので、むしろ死者が絶望していた。生きることはoptimisticな気がした(その劇の中では)。

すっごく難しい話を子どもたちとか歌に乗せてかるーくお届けされたような気がする。難しくとったのはわたしの勝手か。同居人に説明しようとしたけど、全然伝わらなかった。あらすじを伝える才能が壊滅的にないような気がする。あわや。

ニール・ヤングきいてたけど、記事書いてたら「おーそーうーしーきー」って感じになったので久しぶりにきいたけどやばい。

Neil Young - Greatest Hits (Full Album) - YouTube

アングラ耐性あるならば。 

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