お帰りなさい
一週間ほど東北の山の中に行っていた。数十名のおとなと子どもたちと。
「知らない人とキャンプをする」っていって合点の行く人の割合はどのくらいかわからないけれど。そんなに多くはないと思う。あと、「宗教?」って思われないか心配。宗教じゃないよ(少なくともわたしは)。
神様(同居人)にもおそるおそる伝えて、怪訝な顔されたけど、くわしい説明はせず旅立ってしまった。神様は自分もその期間を休みにしていた。
自然の中で暮らすというのはわたしの人生のテーマであるとあらためて思った。くらくらするほどの虫。不思議と蚊は少なかったけど、それ以外の虫に刺されて腫れた。おとなも子どももみんな腫れた。都会では見ない虫。田舎にいた虫。緑、草、川、水はめちゃくちゃおいしい。あらがえない自然。急な大雨で途方にくれたり。でも全部しょうがないんだ。
もちろん帰ってきた今、エアコンのきいた部屋で汗をかかずに生活できる快適さも最高なんだけれど。都会の暑さは湿気でできてると思ったよ。帰ってきた途端、眠すぎる日々なので、山の中でのあの明瞭なわたしはなんだったんだろうとも思う。夜はすぐに眠たくなる。健康的な生活。
とはいえ。いろいろ難しくて。子どもたちがいなかったら野外のキャンプなんてしないとも思う。アウトドアは好きなのだけど、BBQは嫌いだ。おとなだけの活動は務まらない気がする。子どもは野生だ。野生と自然のセットにめちゃめちゃにされて、でもおとなとしてふるまわなければいけないのは理不尽だ。
子どもは無垢で無邪気だ(とされている)。子どもに罪はない(らしい)。実際そんなことはないのだけど、子どもがゆるされるのは自我とか自意識みたいなものが確立されていないからなのだと思う。すべてのおとなは子どもであった。おとなは子どもをおとなにしようとする。その自我の手招きは、仲間になれよというエデンの園のリンゴみたいなものな気がする。禁断の果実を見せびらかして、もてあそんでいる。わたしたちは子どもが愛おしくて、そしてめちゃくちゃ憎んでいる。もちろん無意識で。
(たぶんそういうことばっかり考えちゃうから、子どもをもちたいとか思わないのだ。)
行ったその日に引退しようと思った。子どもに圧倒されて。もう余生だ。あとのことは元気な人たちにまかせたい。と思った。子どもはよかった。あれ以上もあれ以下も望まない。子どもらしすぎるとやれやれって気になるし、変に大人ぶっていると癪にさわったりして。子どもでいてほしいのかおとなになってほしいのか。たぶん両方。
子どもに罪はないんなら、おとな達はみんな罪深いわけで。業の深さに。やられてしまったといいたいが、ただただ、あんまり好かないなと感じる人に気持ちを持ってかれてしまっていた。自然の中で。野生の中で。わたしは小さな自分を守ろうと、理性的にふるまおうとしていた。みたいだった。つまらないことに。もっと普通に笑っていたかった。
言いたいことは言わなくてはいけない。つらいね。
なんであれ空は美しいと思ったのだ。
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ほんの少しだけど報酬が出たので、小さなカメラを買おうと思う。こわれてるカメラも直そう。フィルムも現像に出そう。。
シェフの話とかもちょっとだけ、あとがきめいたことを書くつもり。目次もつけたい。