紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


シェフ - 最後の日ともう一日

   

 

最後の日はやってくる。望むと望まざるとにかかわらず。

朝、事務所でシェフに会ったけど、やっぱり元気そうで、明るく声をかけてきた。ねぎらいの言葉と、夜会おうね、とか。とか。楽しみでないとは言えなかったけど、でもやっぱり気乗りするとは言えなかった。し、全然こっちの様子とかみてないのかな、と思ったり。ひとりで楽になっているシェフが嫌だった。

今思えば、わたしは自分の悲しみにしがみついていた。辛さや悲しさや怒りを流してしまうのはなんだか惜しい気がしていた。この深い辛い感情をわたしに味あわせておいて、おいしいところだけ持っていくなんてずるいと思った。同じ目に遭えとは言わないけれど、わたしの感情を受け止めてくれてもいいはずじゃないのか。

感情を出していいと言ったのはあなただったし、わたしに感情を、こんな気持ちをくれたのは、あなただったでしょう。先生のような、親のようなあなた。過ちを認めるなら、それこそ全部引き受けてほしかった。怒り、悲しみ、反発しながらも、奥底では依存していた。なにもかも、彼のせいにしたかった。

そんなことを思いながら。シェフの三歩後ろを歩きながら。少しずつ気持ちを立て直していたのだった。その一方、シェフは陽気でハイだった。距離なんてないとばかりに、話しかけてきた。明るい男と暗い女の二人組が飲酒しにくるのは、ちょっと面白いかもしれない。

その温度差は縮まることがなかった。シェフはしきりにこれからの話をしたがった。家のこととか、家族のこととか。わたしはそんな気分になれるわけもない。またいつ向こう様と連絡をとるのか、わかったものではない。わたしがシェフをまた信じられるようになるには時間が必要だった。シェフは早急に事が進むものと思っていたけれど、わたしは一からやり直すくらいの気持ちであったのだ。たぶん。今思うと、自分はチャラにするから、お前もチャラにしろよな、ってつもりだったんじゃないかな。無理無理無理無理。なに言ってんだ。

何だったか。わたしの試すような発言に、シェフは怒って、それから話はぐちゃぐちゃになった。なにを言っても頑なだった。どうせすれ違っていたんだけど、それをすり合わせる気がなくなったんだった。ここにきて、なだめたりすかしたりしたけれど、どうにもならなかった。無理ってわかってるのに、いざ「無理」と言われるとすがってみたりして。本当にどうかしている。わたし。

はじめはシェフがのんでた日本酒だけど、ぐいぐいのんだのは覚えている。シェフはびびって止めてきたけど、「どうせ、ふられるんだからいいです」って言って、まだまだのんだ。まだ頭ははっきりしていた。気がした。熱燗はぐいぐいのめた。水みたいだった。なんでここでこの人とお酒をのんでいるのか、まったくわからなかった。シェフもたいがい酔っていた。悲しむためにお酒をのんでいた。

日付が変わる前に店を出た。お店を出たところで、抱きしめられた。強く。永遠のような気がした。いろんな光がまわっていた。どのぐらいそうしていたのだろうか。人通りはまだある時間だった。そのうち、酔っ払いが絡んできそうになって、シェフも喧嘩をしそうだったからなだめた。家には帰れそうもなかったから、事務所で休むことにした。床で眠ってしまったシェフをどうにか仮眠スペースまで連れて行った。

ほかの同僚たちが飲んでいて、二次会があると連絡がきて、わたしだけ合流した。シェフとのんでたことは話したんだったっけ。そこでさらにのんで、そこから記憶がないのだ。飲酒で記憶をとばしたのは後にも先にもこれ一回きりだ。断片的に。泣いてたこととかは覚えている。吐いた。暴言は吐いてないよね? みんな優しくて、一回ずつハグしてくれた。優しい。記憶があいまいだからいいようなものだけれど、これはオトナとしてとても恥ずかしいことだ。でも、忘れたふりをしよう。覚えてないしな。同僚たちも結局、事務所に戻ってきた。起きてきたシェフは、みんながぐったりしているところを見てびっくりしていた。

なんて日だったんだろう。あの日から一か月が経っていた。前の日の余韻もあった。最後の抱擁が結果をグレーにしていた。なんだったんだ。まだ行けるのか? 全然わからなかった。

もう一回だけ。シェフに電話をして、シェフの家に行った。もう酔ってはいなかった。シェフは心を決めたようだった。わたし達は、終わりになった。

なんかでも、「またつきあうことがあるかもしれない」とか「おれは一年は彼女はつくらない」とか意味わからないこと言い出したりして。言われる端から嘘じゃんって思って。ここにきてこの人はまだ嘘をつくんだと思うと。子どもみたいな弱さ。強がっていただけで、この人なんだなとか。そこまで追い詰めちゃったのはわたしなのかとかいろいろ考えてしまったり。

中でも、「お前は頭がよすぎる」っていうのが、一番こたえた。実際に頭がいいか悪いかは別として。殿方は自分より劣っている(と思える)女性が好きなんだなと思ったり。これは今でもちょっと思ってしまう。自分と肩を並べた女性と対等な関係性を結べる俺、進歩的、カッコイイ! みたいなポーズだったのかナ? だっさ! とか。

まあでも、別れぎわに言うことなんて、褒めにしろ貶しにしろ、たいした意味はもたないんじゃないかなと今では思う。勉強になりました。

はじめはオトナで余裕があって素敵って思ってたシェフなのに、子どもっぽくて余裕のない人という正反対の変貌を遂げ、この恋は終わったのでした。ほんとは好きだったってこともなくしたかったけど。ただのお戯れにしたかったのだけど。そういうことはしてはいけないそうなので。

わたしは、シェフを好きだったことがあった。これだけは悔しいし情けないけど、持っていようと思っている。激しくないなりに、楽しく恋愛をさせてもらった。いったら、自慢の外車(中古だけど)の助手席に一番長く乗せてもらったのはわたしだろうし、美味しいものを食べさせてもらったり、楽しいところをたくさんもらった。のは確かなので。本当にありがたいことでした。これは、結婚してたらそうはいかなかったという思いの反面出てくるものなのだけど。

 

本当はこのあともちょっともぞもぞした。のでもうちょっとだけ続きます。