紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


「お仕事ハイ」にはご用心

仕事ですっごい無理難題を言われたり、〆切が間に合わなくて徹夜やヒャッホウみたいなこと。ある。この世の中には、ある。

 

脳内麻薬よ

イライラ棒みたいな難関を乗り切った時、解放されたそのときに、脳内麻薬がどくどく出る。イメージ。イライラ棒のたとえが古すぎて伝わらないのではないかと危惧しつつ。実際何が出ているのかはよくわからないけど脳内麻薬。麻薬っていうくらいだし、めちゃくちゃ気持ちいいにちがいない。

前略、がんばっているみんなへ キタジマくんからのメッセージ

「チョー気持ちいいっす」

 

中毒性はあるのか

さて脳内麻薬。アドレナリンとかドーパミンが思い浮かんだけど、チョー気持ちいいのはβ-エンドルフィンという物質らしい。幸福を感じた時、快感を感じた時、ギャンブルなどの依存症にも一役買っているらしい。ランナーズ・ハイもこいつの仕業。

すっごい辛い仕事をやり切った時にも、β-エンドルフィンはあなたのそばにいる。あなたのそば(脳内)を駆け回り、あなたをハイにする。これがクセになると、人は無理な課題に挑戦したくなるようになり、はてはブラックな働き方も厭わず、仕事の限界への探索者となるのではないだろうか。これぞ、「お仕事ハイ」の世界だ。 

 

お仕事ハイは褒められるのか?

実際。仕事を進んで引き受けて、残業してときに無理して難題をこなす。チョー美しいじゃないですか。有難いじゃないですか。社畜様様じゃないですか。

でもやっぱり、良くないと思うのです。ハイになるってことは、常じゃない非日常で仕事をこなしている。ケとハレでいったらハレで、お祭り状態でどっかんどっかん仕事をしてるってことだ。一時的なものならいいかもしれない。そう、祭りには終わりがある。お祭り野郎が緊急対応ばっかりしてたら、脳内麻薬で廃人になっちゃうんじゃないかなと思っている。本人は気持ちよくなっているけど、周囲(家族とか)は迷惑してるんじゃないかな。神輿を毎日かつがれたらたまったものではない。生活する個人としては、望ましくないもの。それと、今は良くても五年後、十年後も同じ風にできるだろうか。老いるということも勘案しなければならない。中毒性と継続性は輻輳しない。継続性を担保するのは祭りではなく、日常だ。

わたしが仕事をしているところが二か所あって。便宜的にホームとアウェーと呼ばせてもらってるけど、ホームはともかく、アウェーの人たちのその日暮らし感、お祭り感が半端ない。盛り上がれば楽しいけれど、帰ってくるとめちゃくちゃ疲労している。

そして、その状況が(無意識で)癖になっているんじゃないかと思う。大変大変と言いながら、その状態に依存している。その状態で無くなったら、自分たちがどうなっちゃうか心配なんだと思う。だから、状況を改善することもなくお仕事ハイで擦り減っていく。さらには、これだけ頑張ってる俺たちカッコイイゾーンに入ってくると、他の人たちにもそれを要求してくる。他も仕事でへとへとにさせないと気が済まないみたい。そんなんじゃだめだと叫びたい。君が好きだと叫びたい。

 

というような愚痴をホームの人たちとしてた。

ほんとはブログに書き散らすんでなくて、本人たちに言ってやりたいのだ。言われても戸惑うんだろうな……。言えないわ。

 

脳内麻薬は用量・用法を守って

すごいがんばって働いていて、この記事を目にされた方は不快に感じるかもしれない。当エントリでは、わたしの職場のことを書いたので、ご了承ください。

でももし、ハイになっているなと身に覚えがあるならば、ちょっと落ち着いて、麻薬を抜いてほしい。もちろん何事にも適度な緊張は必要だ。仕事と個人を考えたうえで、バランス悪いと思うならば、一歩ひいて仕事の全体像を見てほしい。そもそもの仕事量は多くないか? 効率は悪くないか? 自分のがんばりはどこにいくのか?

お仕事ハイにならないためには、仕事との適度な距離感、「もうちょっと行ける」でとどまることが必要だと考える。仕事が終わって余力があるなら、一杯飲んで帰ろうぜ! って。そういう風に暮らしたい。

(ただの愚痴エントリなのに、見出しつけたらそれっぽくなったので、冷や汗かきながらまとめている筆者を想像しながらお読みください。)