紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


恋、みたいなもんだ(僕は待ちすぎてとても疲れてしまった)

あまり行かない駅まで行った。知人がライブをすると言うので。
久しぶりにきく、昔からよくあるアンダーカルチュアな音楽。ライブハウスともいえない小さな民家で、畳のスペースで、みんなはギターやあまり見ない民族楽器なんかを弾いていた。

きいている少しの人のためにうたわれる音楽はわたしにまっすぐ入ってくるようで、流通しているものとちがう親密さを感じさせた。
ゆったりとしていやすい空間と思ったけれど、そこにいる人々はお客も演者もあわせて、意識の敷居が低くなっていて、とけ出して混ざりあっているのに、わたしだけが高い壁でもって自分を守っているようで、居心地の悪さを感じた(守るべきわたしなんてないのに)。自分だけが近代人で、古代の祭にまぎれこんでしまったような気持ちだった。
そこに混ざれないわたしは、うっすらと笑みを浮かべて周囲を見守っていた。好きなことだけやるとか、名前をつけずにおいておくとか、はてな民をはじめとするインターネッ子たちがきいたら、卒倒するようなフレーズも多かった。見つかったら、7つくらいにまとめられてライフハックの記事にされてしまうかもしれない。
わたし(達)がふだん生きている社会が、「コントロールしたがる世界」だとしたらその場は、「コントロールされない(できない)人々/世界」であり、いつものマニュアルなんて全然役に立たなくて、徒手空拳で身一つで臨まないといけない感じ。ありのままでいるのって、すっごく簡単なはずなのだけど、いろいろなものを身につけてしまった身としてはとても勇気がいることなのだ。なのでやっぱりお客様のまんまで、近くの人となんとなく話しながら少しだけごはんを食べた。黄泉の国の食べものはほんとうは食べてはいけないのだよ。
最後にうたった人の、ささやくような声、控えめなギターの音、しかし泣けてしまうほどの詞。一言ひと言がじんわりとわたしに届く。ずっと考えていたことを、その反対のことをやすやすとうたうその声を、目をつむりながら聞いていて、その人の一部になってしまったようだった。飲み込まれる。服を脱いで寝っ転がりたくなる感じ。

完全に腹を見せたくなった犬猫のようなわたしだが、帰る時間になったので、途中で席を立って辞去した。雨が降りはじめていた。知人が駅まで送ってくれた。
その人の話をして、「モテる人だね」と断じた。同時にわたしがその人を魅力的に思っていることが暴露てしまうとあとで思った。歌だけでなくて、存在すべてで女を(たぶん男のかたも)魅了する。かれの悲しみを理解できるように思ってしまう。知人は気づかないようで、「そうなんだよ」と言った。
そんで頭のすみでは、こんな人は、音楽はともかく、コミュニケーションをとるための能力が破綻しているんだよなとも考えた。時間を守らないとか落ち込むと連絡がとれなくなるとか。かれと一緒にいたら傷つくんだというところまで想像した。
ほんとうはそういう破滅的な恋愛をした方がいいのかもしれない。20代前半くらいまでにね。ずっとクレバーなふりしてやり過ごしてるうちに、むき出すやり方も若さも失われてしまうとぼんやり思って、しかしそれによって悲劇のヒロイン風な自分を味わえる居心地のいい妄想を味わえる。今。何もはじまってすらいないのに!

わたしに恋愛する元気は残っていなくて。それでもその人を心の中の「片想いリスト」にそっとくわえて。元気にやってる姿を時おり確認できれば、それだけで満足なのです。遠い片想いをまたひとつ。