紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


毒の時代

いつだってどこにいたって寄る辺のなさを感じていたのだけど、それがなくなる日とか場所とかがあると思っていたんだけど、そんなものはなくて、自分の実感だけがあるのかもと最近思った。寄る辺ないままやっていくしかない。つかまるところないままに。

ルールの話をするけど、この世のルールはけっきょく「死なない」だなぁと野生の感覚で思ってしまう。究極いえば、「隣人を犠牲にしても、自分が死なない」、だ。と考えてから、社会にまつわるあれこれをみると、オオ人間、という気持ちだ。よくぞここまで進化し、複雑に社会性を発達させたな、と。

話がそれてしまった。だから、(ほんとうは)死ななければ何したっていいのだけれど、その上に建てられたルールがたくさんあって、それにうなずき、遵守しないと社会の一員とみられない。まあ、これについてもそうなの? って思うところはあるのだけどそれはわたしの思考がゼロか100かみたいなことに陥りがちだからなのだけど。

だからだから、最低限のことをしていればいいはずなのだけど、人生三十年もすぎると、自分の面倒をみてくれる人なんていなくて、自分でやっていくしかなく、最低限にくわえてどれだけ付加できるか(自分次第)、みたいな話になってくる。気がする。だから、がんばろう、とさっきまで思っていたけれど、この書きぶりでいうと、わたしは、それが嫌みたいだなと思った。攻撃は最大の防御みたいな感じで、できるだけ付加してこうと思ったのだけど。そんなことしてたら疲れてしまうと内なる自分は思ってるみたい。ワォ乖離。

休日に昼食をつくろうかと同居人と袋めんを2袋ゆでて食べたんだけど、すべての味がぼんやりしていて泣きそうになってしまった。作り方を守ってくれと思ってしまった。たとえばゆで時間、粉末スープをとくお湯の量。麺がやわい、スープがうすい。でもこちらの作り方がずさんだから、この味が正しいのかわからない。どこに怒っていいのかわからないまま、簡単にオイシイができるはずが、謎のにゅうめんみたいなものを食べていた。

他者とのやりとりの中で、解像度を下げ(て周囲にあわせ)るみたいなことをしちゃうけど、はっと我に返ったときに(つらくて余裕がないときともいえる)、自分にはねかえってくる。つらいのでやめたい。逆に他者がわたしにあわせて解像度を下げていることもあるだろうけど、やめてほしいと思うと思う。

A面とB面

わっ、にがつ。2月だった。気持ちとしてはまだ8月くらいの感じなのに。わたしの精神だけがいまだ昨夏にいる。忙しい時間があり、過ぎ去ってなにも残らない、無、だ。無があるぞ。なにもないのだけど、そのときの疲れや感情はどうにかある気がして、その手ざわりを確かめようとしている。

急に、ふと、自分は "よわいもの" だったと思い出して(弱者とかマイノリティとか、でもいいんだけどそれらとは少しニュアンスが違う)、よわい個人としてのわたし、に気づいて、というかそうだったことを思い出して、どうにか生き延びたことをまず言祝ぐのがいっとうなのだけど、それを忘れて、いつしか普通のふりをして、強いものみたいなふるまいをしているんじゃないか。そういう考えに近づきがち。それは言葉からはじまり、思考や行動をしばる。ありきたりの言葉にうたがいを持つということは、だれかの言葉を借りることをうたがい、自分で考えて、話し、書き、責任をもちたいという心持ちなんじゃないかと思う。思い出す。すぐに忘れてしまう。これはレトリックというよりアティテュードのはなし。

よわいひと、この世の人すべてがよわくてもいいんだと思う。それに、弱者が集まったら強くなるみたいな幻想を持たなくてもいいんじゃないか。集合は力になるかもしれないけど、ひとりひとりはよわいままでいいんじゃないか、というような。権力を忌避する。きもち。

まあでもそれは時代に合っているような合っていないような。二極化しているかもしれない。最近はそういうモードだから世間で(といってもわたしの世間はインターネットのことなんですが……)流行っている物語ってよわいひと(弱者・マイノリティ)の(小さな)声の話なんじゃないかととらえている。世界は確実に変化している。一方でそれにあらがう声も大きくなっている気もする。あーでも二極化じゃなくて、おんなじことなのかもしれない。A面とB面なのかも。ね。