紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


遊びましょうね(文字で)

小沢健二の新譜が出るんだってねと思ったら出ていた。来年かと思っていた。2020年にツアーをやる?(の?)を勘違いしていたみたいだった。遠からず入手しようと思っている。のだが。

それはそうと湯浅湾の新作にも心がおどっている。


「ひげめばな」湯浅湾

猫ずる(い)と思ったけど、ねこ(人間)の歌だったからただしかった。

湯浅湾のいくつかの曲は(もちろんこれも)、遅さ、というか悠長さといってもいいのかもしれないんだけど、のんびりしていて、結論までの非常に長い距離がある。その道をゆっくりと進んでいく。丁寧にピースを埋めているような気もするし、同じことを何度も言っていてただの冗長ような気もする。ただ、その遠回り(かれらもこれが最速の道と思っていないと思う)が心地よい。時代のことをいえば、少し前の時代の特徴(はっぴいえんどくらいか)と感じるのだけど。というようなことを思う。文章を読んでいても、これは遅いとか速いとか思ったりもするけれど、音楽をともなう曲の方がわかりやすい。

職場では持ち回りで文章を書くのだけど、今月はわたしの番で、キャーキャー言いながら書いたし、難しいしわかりにくいといわれ、勝手に文章を入れ替えられたあげく文意が変わりそうになったのだけど編集する人が気を利かせてそれはやめて短くするだけにとどめてくれた(最後に音読されてはずかしめをうけたけれどまあいい)。書いているときは向き合っているけれど、書き終わった途端になんでもよくなってしまって修正まで気持ちを持っていけなかった。

文章を読んでわかりにくいといわれるのはそんなものだろうと思ったけど(こら)、他の人が短くできないのは(その人の力量という面もあるかもしれないが)問題かもとぼんやりと思った(わからない文章は直せないから)。しかし日記を書いてネットに放つ生活をずっとしている身としては、読んでくれてる人は何を読んでいるんだろうかという気もした。気楽な関係だよね、われわれは。文章が遅いとか速いとかいっても伝わってないのかもしれない(わはは)。

数年前のことだけど、つくった短歌を当時の職場の人に見せたことがあって、そのときは面白がってもらってやったーと思ってたんだけど、今になって「また見せてね」とともに「あなたの内面が見えるようでよい」といわれてげんなりしてしまった。それはそちらがこの文字列からわたし内面を読もうとしているから読めるのであってーーーと思った。わたしではなくその文字たちをおもしろがってほしかった。もっと遊びましょうね(文字で)。と思っている。いつも。

自分のことをちゃんづけする女と彼pippi

少し前から、たまに、自分の一人称を "名前+ちゃん" にしているときがある(つまり、 仮に "紙ちゃん")。そういうことをする人間は "子ども気分が抜けない" "自己中心的な"、はたまた "かわいこぶりっこ" である、という思想がある。わたしも深く考えず、その説をなかば支持していたのだけど、いざ自分がそうなってみると、そうでもないなという気がしている(とはいえ、これらは外側からの評価であり、自分自身であるわたしが違うといったところで否定とはいえないかもしれないが)。

そもそもなぜそう呼称するようになったのかというと、わたし自身、ちゃん付けで呼ばれることがほとんどなくて(さん付けばかりの人生である)、小学校低学年の時分に名前の一文字目+ちゃん(つまり仮に ”かっちゃん”)と呼ばれたくらいであった。他人ですらわたしをちゃん付けすることに違和感があり、ちゃん呼ばれからは遠い存在であった。しかしヒナ氏である。10年ほど前にわたしの人生にあらわれたこの人はわたしに "ちゃん" を付けて呼んだ。かれなりの好意のあらわしかたなのだろう(が、子どもっぽいなぁと思って気に入ってなかったんだよ)。そして同居がはじまると、はじまったとたんに呼び捨てになったので(!!!(それもどうなのか(当時はふるえた(今思い出してもふるえるぜ))))、”ちゃん” 付きのわたしはどこかへ消えてしまった。それが数年間の潜伏期間を経ての復活である。しかも自分の口で。まさかのリバイバルである。この世でわたしにちゃんをつけて呼ぶ人はわたししかいないのである。という感じで、この逆密室みたいな状況が形成されたのであった(逆密室とは)。

いざ、"紙ちゃん" と自分を呼称してみると、自分である感覚はほとんどなくて、他人のことを、親戚の誰かくらいの感じで話しているような気分になる。自分を "ちゃん" 付けで呼んでみてもまったく自己中心的でもないし、(自分自身ではないのだから)かわいこぶりっこでもないということがわかった。むしろ、自分を "ちゃん" 付けは、自分を自分ととらえられない離人症的な感覚が強い行為なのであった。

そしてカレピッピである。オブラートに包む元気もそろそろ喪われてきているのだけど、完全にのろけ100%の阿呆なカップルの言説であると考えられてきていたが、生活を共にしていくうちに互いの名前に飽きてきて、そのうちに名前自体が空気に馴染みすぎて無になってくる。そういうときに人は相手を「おい」とか呼ぶのかもしれないが、場合によってはヴァリエーションで対応するのだろう。カレシ、カレピ、カレピッピ……。装飾2000%に思えるこれらの語尾の活用は無になりかけた存在に彩りを与える、おかずがなくなったごはんに添える、戸棚から出してきたふりかけみたいなものなのだ。飽きてきたらピをふり、また飽きたらピッピをふり、さらに飽きたらピョルをふりかけるのだ。これはマンネリを厭う人間の営為であり、関係を持続させるための智恵なのだなぁと思う次第。阿呆カップルをあなどるなかれ。