紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


かわいそうでかわいい

書こうとすることがまとまらないわたしは、  なのかもしれない。

それでもみんな、なにがしかかいている、、のをうらやましさとしょうがなさで見つめている。

傍観者としての自分について、視線について、諦めのような気持ちもあるし、なんとかできるのではという気持ちもある。

少しずつ実体をもちはじめる、おばけの、気、、、のような。

 

おこっている人、怒りを持続できるエネルギーには感服するが、それは通常のコミュニケーションではなく、シュプレヒコールのような、宙に書かれた文字なのだった。対話ではないそれを人にぶつけてなにがしか充足を得られるのかもしれない。でも充足してる人はたぶんこんなに怒っていないだろうと思う。それは、ひとりごとのパフォーマンスだから相手にするのが無意味なのだ、と思うと、そう思われてしまう目の前の人が可哀想だった。そしてそんなものに心うごかされ悲しくなってしまうわたしの徒労もかわいそうだった。

未知

睡眠の質を測ってくれるアプリをつかっていて(まあ半信半疑なのだけど、アラームにもなるからいいのです)、丁寧にいびきの時間を教えてくれて、しかも録音までしてくれる。ためしに聴いてみると、おそらく同居人のいびきなので、自分にいびきはないと思ってしまう。寝ている間のことは未知だ。

野生生物をあつかう番組が好きだと自覚してからNHKの(ことが多い)ドキュメンタリーばかり観ている(山の風景の番組は前から好きだったからそれも観ていた)。キリンが絶滅の危機っていう番組を観て、録画してあった深海とか海の生物の番組を観た。ちょっと違うけど、世界の子どもたちの登校風景の番組も観た。

舞台となった砂漠では2年くらいまとまった雨が降ってなくて(番組制作当時だろうから現在ではないのかも)、動物たちは水場をさがして歩き、見つかったら大切に水をのむ。それは草食動物も肉食動物も一緒で、キリンがやっと見つけた水場にライオンがやってくると、キリンは少し退かなくてはいけない。でも水は飲みたいから周辺にいる。ゾウがやってくると、ライオンを追い払うことができる。さすがのライオンもゾウの巨大さには恐れをなす(狩りのタイミングだとまた違うんだろうけれど)。そうするとキリンもシマウマも水をのめる。急にシマウマが出てきたけど、キリンの背の高さはやっぱり草原の監視役と説明され、シマウマはなんとなくキリンに混ざって立っていた。キリン、ゾウ、シマウマ、種類が違っても動物たちはお互いの特性を知ってやってるのかしらと感じる。

海または深海の生物たちは、そもそも馴染みが薄くて知らないことばかりで、はーとかほーとかへーとか言ってしまうんだけど、映像がきれいすぎてCGみたいに見えることが多かった。海の生物は面妖なかたち色模様をしていて、げげげって思っちゃうことも多かった。海の奥は論理が違う。陸上生物という意味では、わたし(人間)はキリン側でライオン側だと思った。キリンが海に順応していたらどんな姿をしていただろうか。