紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


Dropboxがいっぱいになった

Dropboxがいっぱいになったことを通知が教える。お金を払って快適な環境を手に入れましょう。といっても自主的にやってるやつはひとつもなくて、仕事のために共有しているだけなのだ。動画ファイル入れた人よ、発表終わったし消しちゃってもいいヨネ?

自分の望まないものでいっぱいにされている、人生か。人生かよ。でも、それが人生じゃない人もいて、人の容量にがんがん積んでいく人種もいる。人生だ。それも人生だった。

日記、気がついたら2週間ほかしていて驚きだ。いや、意識はしていたんだけど。難しいことを考えたりPC仕事をずっとやっていると頭の中がキューっと縮んで靄がかかるような感じがあったのだけど、頭痛といってしまえば一言だった。そのときは脳の中心とか後ろの方が縮んでいる感じなんだけど、作業を少しやめて編み物とかしていると頭痛は前の方に移動しておさまる。病気というか老化なのかも。

そうだ日記。書かなくても日々はうつる。毎日はいつでも新しい。最近はもう毎日開き直ってさっさと寝てしまう。夜は何もしない。でもイレギュラーの会合みたいのが入ると必定夜になる。20時にわたしの脳は働いているぞ、と思う。眠くなってきてぼんやりしそうなのをつなぎとめる。後会でもすでに眠りたいなぁと思っているのだった。

ああそう日記。日記ね。日記を書くことで、苦手意識はなくなったというか1000字くらい書けちゃうなーという気持ちになったのだけど、じゃあ真面目に書こうかなと思ったときのハードルは下がらず、相対的に上がったような感じすらして、はかばかしくはない。はかばかしいって意味なんでしたっけね。書いて人に見せることで自分の意識みたいなものに気づくことが多く、言葉とか語感ばっかり好きなんだと思った。あとイメージとか。わたしはめちゃめちゃなのが好き。脳へのアクセスがおかしくなってる現在、イメージを頼りにするのは危険だなぁと思いながら。ただでさえ力技が必要なのに。

好むと好まざるとにかかわらず

他己評価が実感と一致せず、ちぐはぐなままいるけれど。第一それが一致する場合なんてあるのだろうかとも思うけど。でも一致しないと大変だから大体の場合は一致しているのではないかと予想する。こうありたい自分(理想)と実際の自分(主観)と他者からどう見られているか(評価)はごわごわと重なったり欠けたりしている図を頭の片隅で描きながら。

ある時期、理想の自分というものをめいっぱいにやっていたことがあり、今思えば無理していたような気もするけれどそのときは全然苦じゃなかった、それが自分のスタンダードになってしまっている気もする。理想の自分は働き者でがんばり屋だった。現在の実際はといえば、すぐ眠くなるしやるべきことを後回しにしてしまう。他者からの評価はどこからできてるのか、といえばもちろん自分の言動なんだけど、自分が意識していない部分が強く他者にはたらきかけているような気がする。コントロール不可能、でも昔はコントロールしてたんだから、という意識との齟齬があるのかも。あいまいに微笑んだりすると余白を他者の解釈で埋められてしまうの、やめてくれと思うけど、ならば自分で余白を埋めていかないといけないのか?

ワークショップに参加してああだこうだやって、最後に発表しないといけないので短い時間でがんばる。こう思うからこうする、ということをつねに言っていくのはたいへんに疲れる。日常的に接してる人とのやりとりはなんて簡便になっているんだろうか。ちゃんと伝えたつもりでも、相手がちゃんと受け取っているのか怪しいし、例で出したものを自分の考えみたいにとられても訂正する気力もなかったりして。時間がないので雑になるような気もしながら、でも話しておくとペアの人がくみ取ろうとしてくれたり自分でも意識にのぼるので大事だと思った。段取りがぜんぜん覚えられなくてお味噌だったと思うペアの人には感謝しかない。記憶、得意な方だったけど今はそんな影もない。わたしがおぼえてられるのは単語だけだったという気がしてならない。