紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


読み終わった

読み終わってしまった。

(作者名)はXXXXXXというふうに語ることは作家論だよなぁと思いつつ、でもやっぱりこの人しかこうは書けないと思うことも多く。作家論とテクスト論を共存させることもできるのかも、って今なんか思ったのだけど。

村上春樹の文章は寓話っぽい、どこにも行かない、みたいな印象がある。文章の角は丸くなっているように感じる。たしか、書いた後に5回くらい最初から書き直す(推敲する)みたいなことをどこかで読んだので、その作用で文章の角がとれて丸くなるのだろう。少し前に読んだ三島由紀夫と比べると、ひどく乾いた文章だ。

寓意っぽく(または童話のように)感じるのもそのせいだと思う。キャラクターや行為も丸まって輪郭の太い線になる感じ。比喩やアナロジーなんかでイデア的なことにもふれるからアレゴリックに感じるんだと思う(ややこしいけど、リアリティから遠い、みたいなことだ)。だから主人公が窮地にたって逼迫するような場面でも、読者としては「そういう物語」の「一人物」に起こった出来事のように感じて、あんまり自分事に感じない。読んでて恐ろしくなるような描写、主人公が本当にそこにいるような、または自分がその一員になってしまうような物語とは反対方向だ。そういう遠さがあるのだけど、でもそれが無責任ということではなくて、人々から少し離して一般化とか、イデアの話のようにすることで、世界の大枠をつかむことができる。そういう枠組みなんだと思う。わたしの感じる「どこにも行かない」も物語上での移動はある。しかし物語が確りとしすぎていて、どこかにいった感触がない。本は本でずっとこの手の中にあったという感覚だ。

それで(長い前段だ)、物語の話をすると、主人公は苦難を乗り越えて、女の子を取り戻した(と同時に自分を取り戻した(というのが大仰なら、一部が(または全部が)少しだけ変容した))とてもささやかな話であると思う。話の中で描かれた行為としては妻に浮気され、東北から北海道をひとりで旅行し、友人のつてでいわくありげな家を借り、不思議な人物が家にやってくるようになる、秘密を打ち明けられてそれに巻き込まれていく、美しい少女、幼いときに亡くなった妹、、なんかがあり、どれもそれだけでひとつの物語になりそうな気もするけれど、それらが下準備となって、主人公が「少しだけ変わる」というなら大分、いやかなり贅沢な話だ(それも「どこにも行かない」と感じる理由のひとつかも)。

(今回の)主人公はれっきとした「悪」と戦うわけではない。というか、「悪」だってれっきとして居るわけではなく、ちょっとした隙間にいたり、ある人の些細な部分だったり、人が一日のほんの数分だけそちら側になる、みたいなことだと思うのだ。主人公は戦わず、ただ自分や過去の手ざわりや「善きもの」たちを信じて暗闇を通り抜けた。それでなんとかうまくいったように見えた。という話だ。メンシキさんやまりえのお父さんなんかに潜む「悪」(みたいなもの)には手出しはせず物語は終わる(まりえのお父さんなんて、名前だけで実際には出ても来ない!)。そちらはそちらで、ということなのだとわたしは受け取った。

(確認のつもりでWikipediaを見にいったら、めちゃめちゃ充実していて続きを書く気がなくなっちゃいましたね……)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%B8%8A%E6%98%A5%E6%A8%B9

個人的には「父親」とか「母親」にかんする書き方が気になっていて(フロイド的ですねーーーーー)、今回、たぶん、はじめて、親になったんじゃないですかねと思って、これまでの作品も読み直したいと思って。思ってはいて。

読み終わると思っていたがなかなか終わらない。村上春樹を読んでるから村上春樹のことばかり言ってるけど、三島由紀夫を読んでいたときは三島由紀夫のことばかり言っていた。短歌の本を読めばそのことばかり考えている。自分はただただ単純な人間なのかもしれない。

戦争のことにかぎらず、クラシック音楽や昔の洋楽ポップス、海外作家の引用が意味ありげに出てきたりして(作家の引用は衒学的ではと思わなくもないが、気づく人しか気づかないから指摘しづらいように思える)、音楽なんかはすぐに聴けるのだと気づいて、本を開きながらYouTubeで音楽をかける。以前の読書では(『多崎つくる』かなぁ)、そんなことはしなかった。時代だ。しかし相変わらず主人公はスマホどころか携帯電話を持っていない(それは春の川に投げ捨てられてしまった)。本の中で鳴っている曲を聴いているのは少し三次元かも。『騎士団長殺し』は映画化に向いてる気がする。アニメ映画でやってほしい。

YouTubeでかけてみて、面白かったのがこれ。


ABC - The Look Of Love

(CGを使わないで工夫してるものが好きだと思った) 

 

前回書いたことを思い出してみて、悲しみは共通するものがある。戦争とか災害とかね(もちろん個人的な悲しみもある)。では、多くの人が共有できる喜びというものはあるのだろうか。天皇結婚とかですかね。それも考え方によって、忌避したりお祭り騒ぎすべきでないという人もいるはずで、そもそも構造的に喜びは共有できないのではないかと思う(ついでに考えるならば、それと対をなすと考えられている「悲しみ」について、①本当は対じゃない、②本当は共有できない、なんて仮説も浮かぶけれどそれは後回しだ)。

一度に多くの人やものが失われることはあるけれど、一度に生まれることはない(ものが一度にできるのは工場だ)。もしかしたらそれは「春」なのかもと思うけど、人間はたぶんそのサイクルからは離脱してしまった。イザナミが10000人殺すといえば、イザナギが10001人生まれる(生ます?)と言ったというけれど、言葉遊びだなぁと思うのはこんな時代だからですかね。ベビーブームというものもあるけれど、ひとつひとつの誕生はすごく個人的なものだと思う。ひとつひとつの死ももちろん個人的なんだけど、いちどきに失われるときに、それは個人を奪われ、顔がなくなり、全体に飲み込まれてしまうのかもしれない、なんてことを思った。