紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


面白いパーティー

シンさんのボードゲーム大会に参加した - 意味をあたえる

ボードゲームやるフレンズ3 - 母父トニービン

ブログ色ボードゲーム会 第2回 - 世界は称賛に値する

昨日遊んだボードゲームの記録 - 世界は称賛に値する

 

ブログに書きますか、といったり言われたりして、それぞれうーん、みたいな顔をしたんだけど、いざ書かれてみたら藪の中みたいでおもしろかったので乗ることにする(自分が客観的に書かれているの感動する)。(もう半月経ってしまった……)

頭の中で何回か書いてみたけど、ブログで日記を書くのは編集者でもあるということだと思った。何を書くか、どう書くか、他者を意識すると人は編集者的になる(でも、ならない人もいるのかも(と思わせる人がいるのかも))。なんつーてあんまり関係ないー。

しかしここにおいて、オフ会的要素とボードゲーム楽しい的要素が混在するのがややこしく、両方書いたって半分書いたっていい、というのが先の編集者的、の意味ではあるのだけれど、それぞれが主観を持ち寄ることによって、ものごとがはっきりするかと思いきや、矛盾したりするのが藪の中的という意味。わざと攪乱する必要はない、というのがわたしの意見だけど、そういえばそれに似たような状態があるゲームの中でも起こっていたので、げに人生はゲーム。またはゲームは人生。

 

インターネットの人に会うの、はじめてではないんだけど、多人数というのははじめてで、しかし初対面とはいえ、文字を通じて知っている仲だとややこしい自己紹介はいらなくて、普段の感じから対話の節度も守られているようで、話しやすかった。オフ→オンよりオン→オフの方がいいんではないかという考え、だいぶ強化された。

 

 

▼かたろーぐ(かたろーぐ云々は別に書きました

わたしが持っていった。のはいいんだけど、「あれ、説明するの自分?」ってなった(けど大丈夫だった(たぶん))。カタログを集めるのを忘れていて最初からついてるセットで一回ずつやった。シンさんの食べ物ランキングを当てることになったのがピークだったのではと思っている。 

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 ※個人の心象です

全然わかんないなーといいながら、質問してそうかーっていいながら当てて(当たらなくて)、相手のことがわかったりわからなかったりした。最初からついてるセットのカタログぶりもおかしいので(並んでいるものごとのレヴェルがばらばらなのです(それでまず笑えるしランキングがいびつになって面白いから個人的にはアリだと思っています))、いい感じのカタログ用意したらよかった。ディクシットのカードとかでもできるかもね。だれかが「ブログの記事でもできますね」って言って、でもチョイスが大変だなーとかいってたら、だれかが「自分やりますよ」って言って、そもそも読まないといけないから時間がかかるね、みたいな話をした(やってみたい)。

 

全体をとおして、ちょいちょい「われわれブログを書くものには格好の~」とか「言葉をあつかうものとして~」みたいなことを言ってくる人がいたのでおもしろかった。テレビ好きですよね? ときいたけど、そうでもないと返された。

 

わたしたちにはもちろん顔があって身体があるのだけど、ネット上にいる分には頭しかないというか、たましいみたいなものでやりとりしている感覚があって、宗教じみたことを言いたいわけではないのだけど、実際にかたちがあるということに頭がついていかなかったけど、話しているうちにそれぞれがそれぞれであることに納得がいってきて、そのピントが合うような感覚がおもしろかった。だいたいブログのままなんだと思う。ってなったらブログもブログを書いてる人も倍おもしろい。

 


▼タイムボム

警察と爆弾魔に分かれてそれぞれの目標を達成しようとする。人狼的というか役割遂行にくわえて 4 手ごとにカードが回収され配り直されるので、運の要素が入ってくる。爆弾魔が似合いすぎる人がいておもしろかったけどそれはそれでどうなのってちょっと思う(狼少年的な)。楽しかったので何回かやった。お邪魔者とかもそうなんだけど、与えられた役割に対してどうふるまっていいのかわからなくなっちゃうので、「よくわかっていない人」をさらに演じていた気がする。難しい(楽しいけどね)。

警察側って絶対に善で、爆弾魔は絶対に悪、なのか、みたいなことを考えはじめてしまってその後ろのストーリー、警察は腐敗していてじつは爆弾魔の方が主役なのではないかとか(映画のみすぎでは)、社会通念としての善きもの/悪きものにそのままのっかってしまっていいのか、みたいになることにより混乱してしまうので、説明書きにストーリーまで書いていてほしい。善悪のお墨付きがほしい。警察の役割をひいたら、自分の道徳と一致するのでやりやすい。ボマーのときは前述の理由で狂人みたいになったけど勝てた気がする。ボマーが似合う人うらやましい。

 

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ディクシットのウサギかわいい

ほかにも色々遊ばせてもらってたいへんに楽しかった。わたしはたいへんに緊張していたのでたくさんお菓子を持っていって、たくさん配った。もので心の安定をはかろうとした即物的な人間だった。お菓子を選ぶタイミングでもちょっと気取ったやつにするか質より量なのか等迷ったけど、結果的にうまい棒ばらまきで大丈夫だったのでよかった。よいことがたくさんあった。帰りの方向が(それは来た方向でもある)それぞれ 1 ミリもかぶらなかったのもよかった。

 

遊んだ日に書いた感想(いちおう)

ブログ - learn to forget(ブログ好きなんだね(好きですね)に尽きてしまう)

少しだけ

ここしばらく、しにそう、と思いながら生きている。死、でもまだそれは観念でもてあそべるレヴェルだから、という言い訳を付しながら。こんな気持ちで職場にいることがおかしく、ふと、ふと、生より死の方が近くなってしまった人(たち)のことを思ったりもする。生とともにあることにうたがいのない頃があり、それがどんどん(だんだん?)剥がれていく時期があり、どちらも等価値になってしまったら、そちら側の方が楽なのではと思ったら、そうなってしまうこと、あるような気がする。わかったようなことを、と思われたら本当にそうなんだけど。瞬間瞬間を生きていて、それを均して生なんだったら、瞬間の振れ幅で、間違いみたいな一瞬で、いなくなってしまうこと、あるような。ブログだって、振れ幅の極地みたいなものがやんやされるような気もするし。巨視的な人生と微視的な人生を両方持つこと、むずかしい。え、みんな、どうやって生きてんの? って少し思ったりもする。ずっと頭がぼんやりしている。たぶん、仕事から離れれば治るんだけど。しかしやめたあとの不安もすごい。社会を内面化しすぎている。楽しいことでうめたい。ブログも億劫なんだけど、書いていたいという気持ちもある。綺麗ごとばかりに寄ってっちゃうのは恥ずかしと思うんだけど、あの終わりの良さ、なんなんでしょう。教育の弊害だ。微分積分の意味(数学的な手法はまた別として)理解してなくて、微分するような文章、ってわたしが感じている状態は"微分"ではないらしいのだけど、錯誤をそのままにして文章を続けてみると、微分はいくらでもできるけどキリがないから、レトリックが必要だ、って思うので、積分はレトリック、ってことにわたしの中でなっていますが、いいですか?

 

はじめから最後みたいなドラマをみたよ パトカーランプのぼんぼりぼんぼり