紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


やっぱり味が好き(間食をやめるたったひとつの方法)

 

味が好きといえば、なんのこっちゃとなるけれどとにかくそうとしかいいようがない。ものを食べる、味がする。味がするからものを食べるというサイクル。甘いとかしょっぱいとか辛いとかすべてひっくるめてのうまさ、うまさでなくたっていい、味。とにかく味がする、これが肝要。

チョコレートを食べる。甘い。食べ終わる、味がなくなる、さみしい、もうひとつ食べる。この循環。食べ物がなくなるときの余韻、去り際が反響してわたしを寂しくさせてあとひとつ、今度はうまく味わってみせると手を伸ばす。チェインスモーカーならぬチェイン味ーカー。

間食をやめるたった一つの方法は一個目を食べない、のであった。はじめなければ終わりもこない。ひとつで満足できる強靭な意思(もしくは上手に食べ終えられる技術)を持たぬものにとってはそれが答えなのだった。

 

飴をよく食べるんだけど、あの1センチかそこらの塊にさまざまな味がつまってるのめちゃめちゃ不思議と思う。それだけでも充分未来だ。過去から来た人はびっくりすると思う(ペットフードとかも過去から来た犬猫はびっくりするだろうな)。それと同時にこの素朴(をよそおった)化学製品め!! と思ったりもする(情緒不安定か)。もともとの"飴"と呼ばれはじめのものはなんだったんだろうな。砂糖水を固めたものとかなのかな。それならわかる。サトウキビをちゅうちゅう吸ってるくらいは納得できる。地に足がついてる感じがする。そういう身辺の実感からはじまったものと生活がよく考えるとけっこうずれていて、やっていけるけど考えはじめると混乱してつらくなることが多い。スーパーマーケットとかも充分未来なんだよ。さまざまな生産者のものが一堂に買える。そこで働くのは生産者とは違う売る専門の人(会社)。社会がそもそも充分未来なんだよなーとか考えてしまうとさらに混乱する。たぶんそれが成熟する過程を見てきた人たちにとっては進歩すごいぞ万歳なんだけど、できあがったものだけを受け取るわたしは混乱している。仮想通貨(仮装通貨って変換出ました)とかAIとかさらなる未来に向かっていける人たち、現在を受け入れていてすごいと思う。気づいたときにはあったものたちを素直に受け入れられるのはうらやましい。そういう人たちが未来をつくっていけるんだなと思う。

書かなくても生きていける

なんつって、ほんとうは書いている。あれだけ紙の日記よと言ってたのが、ブログを書いている間はとどこおっていた。ので今年は紙の日記を優先している。するとブログまでたどり着けない。単純に補完関係にあるかといえば両者は違うもので、ブログに書いていたときは(あれでも)他人に見せるつもりで書いてたんだなと思う(この文章ももちろん)。日記の方がわたしの"生活"に近しいから、日記を書いてからブログ、の順でありたい。それをすっ飛ばしてブログ、時間があったら日記、を書く数年があって、それはどうだったんだろう。婉曲的に書こうとする頭が発達しただけの気もする。そんな生活から日記第一への回帰をすると、日記なのにブログっぽい文章になっていることに気がつく。このまどろっこしい書き方を、成し遂げている、ペンを持ったこの手で!!

書く手段は文章(文体?)に影響を与える、しかしそれは固着のものではなく回帰性? 再現性? がある。手段によって身についた文章がほかの手段でもあらわれる。ウー不思議!

書くことが生きることだと感じるのはそういうのもたぶんあって、「書くこと」自体が生き物のように変わっていく。固体ではない。「書くこと」を「創作」に押しこめてしまうとそれは固く、「書く人」に隷属してしまうように思う。「創作」は目的語で、主語(書き手)の思うどおりにこね回されるのだ(でもこれはわたしの印象で、人によっては「創作」は(わたしの認識と同じような)生きものと考えている人もいるだろう。その言葉をとらえる感覚の違いなのだ)。(でも「『創作(文章)』に書かされている」っていうのもちょっと違う気もする)。あくまでも一対一の並列な関係のように思える。

それはそうと、この世の秘密がわかった気がして、ずっと言われているような、言われてきたようなことで、でもそれを実感するのに三十年必要だった。わたしは天邪鬼だから自分が得心できたものしか信じられないのだった。わたしは自由で、だからこそやりたいことをやらないといけない。上手くやろうね。