紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


お笑いのフィールド

M-1THE MANZAIを二年分(つまり二回ずつ)観て、にわかにお笑いがぐんと近くなった。お笑い、嫌いじゃないんだけど、っていうか好きな方だったんだけど、いつか遠くなってしまった。テレビのない期間があったことが影響しているのだろうけど。番組をぜんぶで4つみたけど、おんなじ人が出てるなーっていう気がした。わたしにとって見たことのない人もこんな大きな大会に出ているんだから実力者たちだ。しかし、オンエアバトルエンタの神様もなくなってしまった今、人々はお笑いの情報をどうやって手に入れているんだろう? YouTube? チャンネルをまわせばどこかでお笑いの番組が今もやっているんだろうか。

フットボールアワーののんちゃんじゃない方、後藤(さん)がベンジーが好きすぎてブランキ―ジェットシティリスペクトのバンド(ネタ?)をやっているっていう情報(この文章のカタカナの多さ!)を急に思い出してみる。ベンジーはよく見るとおかしい(褒めてる)ということ、最近になって知ったわたしだけど、そう思ってみてみる後藤(さん)もなかなかいかれていた。この後藤(さん)のいいところはまじでベンジーが好きで茶化すつもりもなくてやっているところとのことなんだけど、そしてそれはわたしも賛成するのだけど、それでいて笑えてしまうの、後藤(さん)がやっているからなんだろうか。ベンジーが同じことをしていてもわたし達は真面目な顔をしてそれを受け止める。

実際にしていることより、「お笑い」のフィルターがかかることが重要なのかもしれない。そう考えると「お笑い」は笑ってくださいというエクスキューズであって内容そのものではないのかなと思った。

普通のこと、なんてことないこと、真面目な顔をしていることを笑ってはいけないという決まりをちゃらにする。(だとしたら、お笑いの話に不謹慎と食ってかかっていくのはルールが読めてないってことなのかな。)(お笑いでもやっちゃいけないだろって思うこともあるね。)ものまねで笑わせる、漫才で笑わせる、コントで笑わせる、以外に音楽で笑わせる、しぐさで笑わせる、文章で笑わせる、だってエクスキューズしておけばお笑いなのであった。

(なんかでも本当は、そんなゆるされたフィールドでなくても笑いがあふれてればいいのになって思わなくもないのだった。)べつに自分はお笑いの人だと思っているわけではないけれど、(少なくとも自分の)書いているものにはユーモアがあったらいいなと思っているし、笑ってほしいとも思っている。めちゃめちゃ怒りながら、泣きながらのこともクスクスできたらいいなあとかは願っている。実際そうなっているかはわからないけど。なっていないのは修業不足ですけど。なんてこと考えて、自分の立ち位置を確認したりして。

意図なきものなし

その日のことを思い出す。わたしはだれだ。視点はどこだ。みんなが真剣に切ったり貼ったりしてたときのこと。サーモン色のTシャツ、暑かったんだろうね、女の子たちはかなりの足出しで、オイオイそれって大丈夫なのかい? なんていう自分も10センチくらいは足首をチラリしている写真が残っている。いつもは写真を撮る方だからこれは貴重だ。でもやっぱちょっと白すぎて怖いわ。自分の写っているのはできるだけトリミングしてしまう。編集の妙だね。カッカッカ。なんてことをしていると、神になった気分、ってほど大層なものではないけれど世の中のものたいていつくられた(編集された)ものやんねと思ってしまう。画像の端の1ピクセルで画面がしまる。被写体を真ん中に持ってくる、ちょっとずらす、寄ってみる、引いてみるそんなことで印象が変わってしまう。しかし悪意はなくともその処理を経ないとこれらは世に出ない。というわけで。意図なきものは自然以外にないのだった。でも鑑賞には主観が必要で、ということは自然であったって「見られ」た瞬間に編集されたものに変わってしまうのだった。