紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


霜月初頭所感

仕事が日常にになるのに約一年かかる

 

友人の転職話をきいて、まだ少し迷う

気持ちがひきさかれる、というかわたしにはいくつもの心がある

 

強い風がふいたあとは雨になる

 

表現をすること

 

土着の祭、知人を誘っていったらアウェーではなかった

 

眼鏡をこわしてしまった

 

カレーのにおいがただよっている

 

週末だけ爪をぬる(生活)

 

どれだけ話しても平行線なんだけど、「行きたくない」もの、たとえば職場の忘年会とか飲み会とか、気乗りしないけど「行かなければならない」ものに「行かなければならない」のがどうしても納得いかないんだった。いろんな行きたくなさがあるんだろうけど、わたしとしては「楽しかったら(強制しなくても)自然と行くんだから楽しくしてよ」なのである。それでも「行かなければならない」んだよ、と友人は言うし、そういう気持ちもわかるのだよ、頭で? しかしその頭が強制されるのを嫌がっている。ほんとうに心の底からわからないと思うけど、友人と喧嘩する気にはならなかったのでどちらともなくべつの話になった。こんな感じで「わからないこと」をごねていたら相手がきれたみたいになったことがあり、それは避けたいのだった。たぶんこのふたつが仲良くなることはなくて、どこまでも平行線なのだ。もしくは話題としてのステージが違うのでそもそも話が行き違い続けるのだった。 

現実はフィクション

事実は小説より奇というのは確かにあって、座間市の事件に震えてなどいる。その前に実事件をもとにしたこわい映画を観ていたから、これもいずれ映画になってしまうんだろうとか思ったりして。想像力はたしかに現実より素っ頓狂なんだけど、現実のとんでもない事件はだれかの想像が具現したのであるし(だれも想像してないのにこうなっちゃった、というのもあるけど)、そこを踏み越えるかどうかの違いで両者にそれほど差はないのかもしれない。
ただ現実は想像どおりにはいかないこともあるから、すべてだれぞの夢想ではない。
以前、短歌のマスノさんという人の本を読んでいたら「頑丈に短歌をつくる」というようなことを言っていて、うまく説明できないけれど確かに文章には頑健さまたは軟弱さがあるように思える。現実にも頑丈さや貧弱さがあるんだろうか。