紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


知らない人

十年くらい前だったか、ともだち、がいなくなったことがあって、けっきょく見つかったんだけど、その間の一週間か二週間はそわそわしていた。べつにそんなに仲良くなかったんだけど、いってもそのとき数か月のつきあいだったし、かれにはもっと仲の良い人々がいたのだけど。そのときに携帯の番号とアドレスを知っているだけの人が生きていても生きていなくても、変わりはなくそこに数字や文字列があるだけでただ存在を盲信している。しんでしまった、またはいなくなったという報せで途端にゆらぎはじめるのが、わたし、ひとびと、そのかんけいのこと。いきていること、なんのしらせもないことに甘えていることを思いながら生きつづけている。その人は帰ってきたけど、けっきょくそのあとわたしとは二言三言やりとりをしたんだっけしなかったんだっけ。今はしらせがないから元気にやってるんだろうと思ってるけど、また失踪中なのかもしれない。携帯電話を変えたときに連絡先は手放してしまった。時代は変わったからSNSで見つけられてしまうのかもしれないけどね。家出もしづらい世の中。というのはまた別の話。

脳の時代

わたしたち、ぜんぜん強くなく、でも強い気がしているのは脳が独り歩きしているからなんだと想像する。脳が独り歩きしだしたのはだいぶ最近になってからで、その速度はぐっと増して、身体は置き去りにされている。感覚がどうにかついていっている人と、すべて置いてかれている人もいる。それで、「ふつうのひとはつよい」のが自明のものになっていて(勘違いされて)、それ以外は除外される。話の流れとしてそれを「弱いやつ」と呼ぶとして、それらはマイノリティとよばれるものなんだけど、そもそもの前提が幻想だから、「ふつう」って思っているものの中にも「よわい」や「よわい」になりうるもの潜んでいる。ていうか状態として不安定だから、真に「つよい」は思ってる以上に少ないんだと思った。たしかに超人みたいな人はいないことはなく、病気もしないでいつも快活にただしいことを成し遂げる。しかし自分がそうだというのは幻想幻想げげげ幻想(scratchキュルキュル)と言いきかせる。世の人すべてそうなのだみたいにここまで書いておいて、それはわたしのことなのだった。社会が大多数に都合よくできているとして、反転してマイノリティ(この語はよろしくない気がするが)主導の社会制度にすることはできないのか。身体が弱いこと前提の社会に。仕事も学校も毎日行かなくてもいいでしょう行きたいときだけ行きましょう。体調悪いときは休みましょう。つらつら書いてみたけれど、言いたいのはそれだけかもしれない。マイノリティがどうとか書かなくてもよかった。みたいな。なんかでも多数派が少数派を慮るべきっていうの傲慢で不遜って思うときがあり、そんなに余裕があるのだったら生きづらい人たちに主眼をおいて社会制度を設計するのがフェアなんじゃないかとか思ったり(本当はみんな弱い側なのだし)。数の論理でやっていこうというのは乱暴前近代的だし、発想の転換をここはひとつ、肥大化した脳をはたらかせてみるのがいいんじゃないですかね。時代にあわせて脳や身体をドライブさせましょう。