紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


立派な人間

みんなみんな、お約束をしゃべっているように感じてしまう。一定のコードみたいなものを目指している。それは話の内容だとか最後に自虐オチをつけるとかあんまり深入りしないで切り上げるとかそういうの。アブなそーな話題は口にしない。まとまっていないことを喋ろうとすると言葉は身もだえし伸び縮みし逃げ出すようなしぐさをする。そうならないためにみんなは慎重になって、事前にさばいておいて、刺身盛りみたいにして提出する。自分だっていちおうできるけどね、とか思いながら、「うーん、なんだろうなぁ」とかいいながら話しはじめてしまう。それまでいろいろ考えておくけど、そのときはけっきょく徒手空拳なのだった。べつにそれが正しいといいたいわけでもなく、居心地の悪さを感じながらも、たとえば沈黙みたいなやり方で、自分もそのコードに加担していることに後ろめたさを感じて、早く帰りたいなぁとか思っちゃうんだった。ここ数年くらいだけど、自分のスイッチが切れる瞬間にたいへんに敏感になって、「飽きた」ってはっと直感したら帰りたい感じである。「電池が切れたので」とか言ってね。最後まで残って後片付けしてこそ✨立派な人間✨とか思うは思うんだけど、自分でない人につきあう義理は究極ないのだった。ということでおさらばだよ。

べつにいいのにね

よん百年むかしの人の性質の悪さに顔をしかめて出ていく

 

王族の使いたる器に金の意匠ありてトカゲのイデー、ああイデー

 

「フォロワーであることこんな朗らかに示していいのと思った」––「だめだよ」

 

 

久しぶりに美術館に絵を観にいったりして、いろいろ考えた結果、上記のような感じでした。百文字以内におさまるのすごい。芸術家の性格の悪さはしょうがないと思う一方でそれに気分を害される現代人である自分の感性もありますね。家に帰ってダリ展の図録を観て、ダリやべえなという感想に落ち着く。時代が近いっていうのもあるんだろうか。

 

やることは山積みなんだけどどれにも手をつけられずにいる。本や書類を少しずつ読んでみたり。掃除もしたいんだった。雨が降るかもしれない。というときは詩がいいんじゃないかと思う。