紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


大人になってしまった

毎年恒例の山に行ってテントはってわーってやるやつに行ってきた。フェスじゃないやつ。子ども会活動を想像してもらえればよいかと。それでもう、今年はほんとうに楽しくて、いやいつも楽しくないわけではないんだけど、なんかもう飛びぬけて楽しくて、今めちゃくちゃ寂しい。帰ってきてからもぼんやりとしている。子どもだったわたしがこの手の活動に参加するかといえばおそらくノーで、そういう意味ではわたしの子ども時代はそこにはないのだけど、それでもかつてあったものに参加している、ご相伴にあずかっているという気持ちがして、わたしの子ども時代はここに来て満たされてしまった。

なんでそんなちょっとしたことで楽しいのかとか何時間も遊べるのかとか思うけれど、それはきっと想像力の問題で、田舎の駅の一時間も離れたところで、親はいなくて(変な大人たちはいるけれど)、子どもたちだけで何日も過ごす、以上になにかわくわくしたものが見えるのだろうと思う。新しい家を探検したらマックロクロスケが出てくる、みたいな。折り紙でつくった嘴みたいな占いとか、あいうえおって書き出したからこっくりさんかと思った、みたいな、取るに足らないできごとがなにか特別な意味を持って輝いているように感じられるのだろう。そこでは、食事をつくるためにがんばる自分もまたなにかに見立てられているのかもしれない。

というような満足感を、しかし帰りの車中でスピッツがかかっていて、「二度と戻れない、くすぐりあって転げた日」という歌詞があって、ものすごく今の自分、ってなってこの歌を完全にものにしたと思ったのだけど、「チェリー」はオンタイムではたしか小学生の時分で、クラスで歌う歌とかになっていたんだけど、小学生たちにこの歌が解せる(解せた)のかが心配になった。くすぐりあって転げた日の真ん中、もしくは手前にいるであろう小学生たちよ。スピッツの歌詞って変なところがたくさんあって(褒めてる)、それでもスピッツを好きなアーティストにあげてる人もいたなぁって思い出し、絶対わかってないでしょうと意地悪に思ってしまうけど、そこは断じないことにする。

それでさらに帰り道、家の近くの路上で街灯に照らされた木の影が生き物の形に見えてカメラをかまえる。そうそうこんなムード、が喪われたものと思って涙が出そうになる。

伝えるって難しい

って感じて口に出してみて、ああこの感じなつかしく、これでやっとふりだしにというか以前までの研究場所まで戻ってきたぞという風で、この数年間じっくりとこれを軸に考えておったのだぞと思えた。
日常ではほぼ思わないそれを強く感じるのは、行動のフォーマットやらインストールがなされていないからで、一から地道に説明していくことになる。わたしは言葉はうまくないし、自信もないし、話してみたところで相手にわたしの発言を受け取る準備はあるだろうか、この語彙でいいだろうか、筋道迷っていないだろうか、うまく想像できているだろうか、もしかしたら耳に入ってすらいないかもしれないと思うととてもとても不安になる。普段はなんとなくやりすごしているそれが突然に必須の事項となって立ちはだかる。
けっきょくうまく伝わっていないこと、まあ五割わかってもらえれば上出来だろうと思えるまでになったりして、しかしそれではおそらく上手にできなくてわたしたちは路頭に迷ってしまうさみしいねさてではどうしようというところから。積み上げる。実際は積み上がっていない。ワハハ。

颱風の風音をききながら。この家さっき何回か揺れたぞ。伝わらなくてもこの人たちのこと好きだし、向こうもそうだろうしと思えれば、なんでもない時間に笑って隣におることができれば、けっきょく言葉が伝わらなくてもなんとかなるんじゃという気がするよ。