紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


趣味料理

料理が趣味でよかったなと思う。この「よかったな」は「命拾いしたな」のニュアンスで昔話で悪者が口にする感じである。(困ったことではあるのだが最近ではほぼ毎日)仕事から帰宅したのち時間があるとくるったように料理をしてしまう(ストレス!)。煮て焼いて蒸して漬けて、近ごろは気がついたら白米が混ぜご飯になっていたり、もう一品でピザがついていたりする。やりすぎである。もっと時間があればパンかお菓子を焼きたいし冷やす系のデザートもつくりたい。というように胃袋や財布との相談なしに"つくる"方面にだけひたすら慾望が向く。時間と手をつかうことによって癒されている。食事だってものづくりの第一だなと実感する。食べられるし美味しければ害はないのだけどという点での「よかったな」。趣味が放火だったりしたらもっと直接的な手段に出ているからな、職場よ、助かったなとか思っている。ちょっと山賊っぽい。

同居人がひょうきんなのが好きなのだけど、わたしのいない間もひょうきんでいてほしいので見ていない間もひょうきんでいてくれと頼む。実際はどうあれ、それをわたしが信じられるということがたいせつなのだと思う。人の目のないところでも自然は美しいのだというような。『星の王子さま』でもそんな話があったような気がする。星がちかちかするのを安心して眺めていられる。

こぼれる日々をひろう

コーネリアスの新譜がちょっと信じられないくらいいいの。雑誌のインタビューにて、小山田圭吾が息子にきかせたら「『デザインあ』じゃん!」っていわれたというのもいいエピソードだよ。さらにこれは世代交代的な皮肉の例みたいなところもあるとか思うんだけど、今となってはわたしも小山田圭吾側の人間になってしまったと思うと切ない向きもあるのであった。

同居人がかわいい靴下履いてるのをみつけて、わたしからの靴下献上をことわっておいて何故とか思いながら確認すると過去にわたしがあげた靴下であったりして、過去の自分と戦っているのであった。過去のことなんて忘れているし未来のことも予想がつかないし、そういう意味では今でない自分なんてまるっと他人なのだともいえよう。しかしそのアイテムいいですねと思うと自分があげたものばかりなのは過去と現在のわたしが同一性を保っている証拠にはなるような。

読む本読む本に小島信夫が出てきてなんなのという感じになっている。わたしが引き寄せているはたまた引き寄せられている。小島の磁場が発生しているのであった。

短歌の三十一文字のくどさにやられることが多くてこうなったら俳句か詩かみたいな感じになっている。長い文章の方がむしろ意味が薄まって、というか文字数を使うことによって内容をかぎりなくゼロに近づけることが可能なのではないかなどと考える。今こうして文字数を水増ししているのも無を表現するための営為なのではないか。等。無意味に意味はあるので意味のない無為をめざしているのかもしれない。