紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


『すべての雑貨』を読んでいる

世界がまるごと変わってしまうような感覚に胸がどきどきしている。おもしろい本、笑っちゃうことが書いてあるわけじゃなくて、世界の秘密が書かれてある本。囲いの中のことでも外のことでもなく、囲いのことが語られていて、しかもそれが全然わざとらしくない。自分もその世界にいることをしょうがないねと受け入れている。同時に、底冷えのする深い夜に街の片隅でぼんやり光る窓の中で小さくなりながら手をすってあたためながらもがいている、もがいていたことがあったような書き手、と思えば筆者はまだ三十代だというのでわけがわからなくなる。達観した枯れた感じがあるからだ。まったく悪い意味ではなく。

 

すべての雑貨

すべての雑貨

 

 

というわけでこの本めっちゃおもしろい。筆者は雑貨屋を営んでいる人で、しかし「雑貨だーいスキ!」っていう本ではまったくない。まだ途中だけど読み終えるとブログに書く気がどんどん削げていくのでとりあえず。「雑貨化する社会」って経済とか資本主義とかの話なんだけど、この本は経済書でもなくビジネス書でもなく、雑貨について、雑貨化する社会について、増殖していく雑貨に困っちゃった風景なんかは小説じゃないかと思った。自身の来歴とかはエッセイぽくもあり、この本自体もふわふわしている。

それで読んでいるとわたしが買い集めているものとか、出先で欲しくなっちゃうものとか、ものとセルフイメージとかそんなのがぐるぐると押し寄せてきちゃうのだった。いやーどうしようか。しかし本書ではそんな状況を「困っちゃうよね」と言いながら否定はしていないので(今のところ)、気が楽だ。なんならこの本自体が「雑貨」になってしまうことすら受け入れているからね。

でも本当に、「消費しないライフスタイル」を消費している、とか分析されてしまうとこの世の人々みんなかたなしって感じだ。「断捨離」も「ミニマリスト」も消費ですぅーって。でもそうならば、それらに感じてた違和感を説明できるなぁと納得してしまうのでした。

さて、ものに囲まれて、どう生きるか。もう買わないぞ、が正解なんでしょうか。はたして。

からから

ベランダの近況、隆盛だったパクチーだけど、アブラムシにやられて途端に興味を失う無慈悲。種を回収したら枯れた。自分の無慈悲さにびっくりするけどそうなってしまう。葉がなければ光合成できないからね。もう季節は終わりかけていたといえ。シソは相変わらずの摘み放題状態な横でミョウガの脇から芽がニョキリと生えてきて、これは興奮する。若い緑が萌え出でるのはとてもよい。とてもよい。でもよくわからないから食卓のミョウガはスーパーで買ってきた。

 

夢見の才能がないのか、働いたら働いたで職場の夢ばかり見てしまう。そんな中、悪くない夢を見たのだけど忘れてしまった。起きしなのメモを見つけたらまた。

 

一年前のことを白状すれば、あの時強く思ったのは結婚しておけばよかった、だった。実家には年に一、二度しか帰らないことが続いていて、たとえば年末年始の5日×この先30年で一緒に過ごすのは150日と思うとヒエーとなる。二十歳まで親元にいたとしたらそれまでは、365日×20年は7300日(計算合ってる?)がそもそも多いのか少ないのかはかりかねるけど、人生もはや少なし、という気がしてきた。それでその人たちが我が家の近くまで来たからうれしくて饒舌になってしまう。それもピエロみたいなもんで、わたしはから回っている。からから。