紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


のっぽのサリー

やることに順序を決めねばと思ったの、たいへんに初歩的なことではあるけれどそうしなければならなかった。やりたいことは無限にあって目の前に並べてみせるけど、どれもが等しいわけもなく、やりたい度とやらなくてはならない度は違うものだし、消費期限の早いものから食べるのはまあ当然のことでした。
なんて考えながら、植物園に行くのはあきらめたけど結局園芸の店にて苗と土を購入。植物園に行ったら買うんだったしととなえながら。というわけで福利厚生復活です。シソ! 他!!
園芸の店は駅の反対側にあり、そこまで歩いていったらそういえばこの街に住む前、ヒナ氏と下見に来た日のことを思い出し、われわれがともに住むまでのいろいろ、それなりに個性があって、ニコニコエピソード感もあるけれど(ほかの皆様は住居選びのときどうだったんだろう)、たとえばわれわれがじいさんばあさんになったときにそのエピソードって誰にとっても(つまりその時代の花の人たちの誰にも)不要で、わたしたちはただただじいさんとばあさんでそれ以外の枝葉は切り捨てられてしまうんかなとか考えた。悲しい気持ちもあるがまあしかたなかろう。
帰ってから苗をプランターにうつし、案の定土が足りなくなってミョウガは明日以降に。園芸店の苗は立派で今日にも収穫できそうだ。それから同居人と映画をひとつ観て、近所にラーメンを食べにいって今日はおしまい。

春へのアンサー

春の日とともになにかが自分の中にうまれつつ(育ちつつ?)あると感じる。それはゆるさでありたるみでありぽわぽわと眠気の中にいるような心地でもある。(現実ではそんなことも言っておられずぼんやり頭を振ってみては現実にくしと思っていたりするのだけど(そういう心性を完全に肯定できないのが弱さであるかもしれないし、チャームポイントですねと思ったりもする)。)

いつも読んでる文章に序列をつけるわけではないけれど、少なからず分類はしていて、やわらかい言葉、かたい言葉、実用的な言葉、抽象的な言葉なんかが各々に印象としてある。それで今読みたいのは春の心地の風景を共有できるものという感じ。感覚であってなにも説明していない気もするけれど。それでなんだか思ったの、文章を(日記を)書くこと、他者によらない(ブログで馴れ合わないという意味ではなく、誰かの引用をしないということでもなく)、ひとりきりでそこに立っていることはめちゃめちゃ気高い、尊い、それはまるっと善なのだ。春の気分が見せた幻かしら。瞬間でも確信してしまったのでわたしはこの感情を持っていかなくてはならない。ああだからみなさま、なにがしか書いていてくださいね。それだけで、わたしはあなたを愛します、と思う。

べつのことを書くつもりだったんだけど、いくつか読んでるうちにこれを書かなければいけないという気持ちになった。だからこれはだれかへのアンサー。春へのアンサー。