紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


そんな日を思って日々を

雨なので歩いて行く準備をする。短いレインブーツを苦労して履いて(長靴って呼ばないことも増えましたね)、くるりアジカンスネオヘアーを聴いているうちに目的地に着く。雨降りの朝はとってもエモい気持ちになる。エモいっていうか、心が、胸のへんがぼうっとして少し浮いているような感じ。少しなら涙ぐんだっていいくらいだ。そういう気持ちを状態をどうあつかうべきかずうっと考えている気がする。平常心と瞬間(エモ)と。夜には雨は弱くなっていて、レインコートと傘を乾かしながら帰る。

 

はじめての短歌 (河出文庫 ほ 6-3)

はじめての短歌 (河出文庫 ほ 6-3)

 

 穂村弘の短歌本を読んだりする。ほんとうに「はじめての短歌」で、もうだいぶ短歌になれている人には物足りなさそう。エッセイの感じもあるし。これを読んで短歌をつくれるかはよくわからないけれど、「生きる」と「生きのびる」について書いてあって、その別があることを枠組みとして持っていると、色々考えやすいと思った。わたしは「生きのびる」ことにかんして苦手だしわからないことばかりだけど、「生きる」ばかりで「生きのびる」がおろそかではしんでしまうから折り合いをつけなくては。苦しいときも「これは『生きのびる』ため」と自分にいいきかせることができよう、等。それで、昔とかはるか昔とかであれば、この「生きのびる」の内容はまた違ったんだろうなとかも考えた。

 

そういえばわたしの母はわりと古文に親しんでいる人で、ふと短歌の雑誌などを渡してみたりしたけれど、最初は面白がっていたのがすぐに放り投げてしまったりして、どうも特集が気に入らなかったご様子で、たぶん彼女はほんとうに純粋な古典が好きで、現代短歌(の有象無象)が受け入れられなかったんだろう。と思えば投稿のコーナーを微笑みながら読んでいてよくわからない(本当はその感覚もよくわかる)。短歌って「読む」人と「詠む」人がかなり重なっているってどこかに書いてあったけど(そしてわたしはそれを無邪気に信じているけれど)、母は「詠む」側にはまわらないんじゃないかと思った。不思議だ。彼女が真面目な同人をやっているの、わたしは知っている。あの人の創作に短歌は入らないのか。母といえば、本を貸すと真ん中からひらいて折り目をギュッとつけられて、実はわたしはそれが嫌だからそこは合わないとつくづく思う。

趣味:料理

食事をつくること、にどうやら多くの意味があったらしく、食事を提供すること以上につくること、調理をすることがわたしにとっては癒し、みたいなところがあって、休日でも平日の夜でも時間をかけて献立を組み立てる、台所にあるものを把握し消費する(必要があれば補充する)、どの料理のどの手順からはじめるか、調理器具やコンロの空き具合、どのくらい時間がかかるかなんて考えながら、これは複合的なパズルゲームで、どう解いても最終的には(いちおう)成功はするし(味がよければ万々歳だけどそれは副次的な成果だ)、上手くできるとすっきりするというか、それでわたしは心を落ち着けている節がある。同じように掃除とか洗濯も生活のどこに組み込むか考えるゲームみたいに思っている節がある。もちろんホコリがないのが嬉しいとかはあるけどやっぱりそれは副産物で全部はパズルと思えばこそなのか、わたしの中では手順は決まりつつある。それに比べると料理は自由度が高い、ヴァリエーションがある、挑みがいがある。パンとかお菓子とかの生地をこねているとそれはまた違った意味での癒し、柔らかいものにふれること、わかりやすい癒されがあるのであった。

休みの日に家事をしてて、「ウッ、変態」と思ったりするし、ヒナ氏が分担してくれてもいいのにと思ったりもするけれど、これは癒しだからそう簡単には渡せないという気もする(満足できるレヴェルでやってくれるならいいような気もするが、必要なのは結果か過程か)。そう考えて、同居人の休みの日とか日がなゲームをしているの、それも癒しなのかもしれない。

それで今日はクッキーを焼いたりしていたんだけど、水分多めの小麦の生地の判別のついていない感じ、自分のかたちがはっきりとわかっていなくて焼く段になっても隣が近ければ元のとおり一緒になっちゃおうという感じ、マラソン一緒に走ろうとか同級生と言い合う以前のもっと原始的なごにゃごにゃをながめながら、手ではそれらを引き離したりしているんだけど、それから混沌が生物になるような、子どもが自我を獲得して青年になるような、その過程をひとつひとつひっくり返したりしながら確認する。隙あらばくっつきそうな時間は長くハラハラと見守り、焼きが入ってくるとまずは外側からぷっくりと形が定まりはじめ、でもここでさわるとまだまだ柔らかいのがわかり、耳たぶな感じで無駄に転がしたりもする。そうすると隣人とは多少近づけてもよくてはじめよりくっつけて一度にたくさん火にかけられる。寂しい気もするけれど、食べるためにはこれが必要。最終的には焦げ目がついて堅いガリガリになるまで見届けてハー満足。満足したあと食べられて、料理ってお得な趣味だと思うんだけどどうですか。