紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


わたしの宇宙は静か

外界はざわざわしていて、怒りも悲しみも苦しみもよろこびもあふれている。削れていく話にああだこうだと思い、その瞬間はわたしもざわざわする。疲れる。部屋に帰ってしまえば静かで、お湯の沸く音をきいているくらい。疲れていたら最低限のことをして眠ってしまえばいい。わたしはわたしをかわいがって生きていて、それが他人を蔑ろにしてしまって不興を買うこともあるのだけどあったのだけど、謝ってゆるしてくれない人はしょうがない。全部持ってはいけない。というかそういう人は持っていかなくてもいい人だと思ってしまう。持っていきたい人が去ってしまうのはかなしい。静かに切り離す。

違う意見がさまざま出ていると混乱する。がどうやらそれはみんなが別々の宇宙にいるからなんだと考える。各人の持ってる断片をあわせて大きな絵をつくってると思ってたのがたぶん違った。みんなの持ってるピースは異なる絵のものだ。もしかしたら同じ絵柄の小片を持ってる人もいるかもしれないいないかもしれない。そうとわかればそんなにつらくはないけれど、自分の相容れない絵の話をきいてるの億劫じゃないのかしらんとか思ってしまう。とにかく疲れている。わたしの宇宙はわたしだけでできているからとても静かだ。眠ってしまう。

 

ブドウ糖は葡萄の味で

窮地に追い込まれたときに人間の本性が出るというけれど、わめいたり怒ったり泣いてすがってみたりさっさと逃げてしまったりまるきり固まってしまったり、冷静に対処できたら格好いいんだけど、なかなかそうもいかなくて、すると土壇場でどういう態度をとるかという方略だけでなく、そもそも追い込まれないように立ち回るというやり方もあって、困らないようにみっともない姿をみせないように、人は人生に保険をかけている(人もいる)。そうでなくても人生に起きることって平等ではないのだけれど。

ライフサイクルやらライフステージやらとにかくライフのあれこれで、「まさかこんな人だったなんて!」ってなって決裂するみたいな話があるけれど(おもに恋人関係夫婦関係か)、その「まさか(略)!」におちいる機会のないまま年齢を重ね天寿をまっとう……ってケース、まあまああるのでは、と回りくどい文章(ここまで400字弱)を用いて考える。やっぱその別れ(もしくは未別れ非別れ)の原因は相手の人格ではないですよ(要因にはなっているかもしれないけどね)みたいなことを言っていきたいのかもね。かもねむ。

それでいうならやっぱり岐路で、仕事がめっちゃ忙しいのはわかるけど、気持ちが荒れているのもわかるけど、そうかーそういう態度をとる人なのか―ということで、いやしかしまあわたしもどん底で荒れていた先々月とかを考えたらお互い様なのだけど、機嫌がいい日だけを考えて、日の当たる場所だけを見ていていいのかいという気持ちで、ここをどう受け止めるか受け入れるかが今後にかかわってくるのかな(いやしかし窮地となったら暴力とかは問題外だけど)。ひいてはわたしとあなたの関係とはなんなのか、というような。変容していく、この共棲生活がどこにゆくのか。ゆかむとすのか。

依存される、と感じるとわたしの中でアラームが鳴って距離をとりたくなる。自分がめためたなときはひとりになりたいと思って自室にひきこもったりする。わたしは人との関係を必要としないのかもしれない(そんなことはない)。そうだとしても、他者はそうではないかもしれない(では何をすべきか)。最前に戻れば、窮地に冷静な態度がとれるのは格好いいけど、べつに正解ではないような気もする。窮地。外部からやってくる窮地ならば持ちこたえて前向きに対処できる時機を待とう。たぶん「前向きに対処」を両者できなくなってしまうのが、ほんとうの終わりなんじゃないかな。という気がいま急に。