紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


エゴい

この人だれかにたよりたいんだな、っていうのは本人から発せられる言葉とは反対で、不安で、あせってて、どうしようもないのに、強がりしかいえないのだから、やっぱり言葉はふかんぜん。などと思ってみても、われわれには言葉(と行動)しかないのだから、その発現を正そうとか切り捨てるとかはできない。もっと強そうにみえたのに。

前も書いたけど、わたしはそのよすがにされそうなのにはノーサンキューで本当に嫌で、でもその一方でインターネットで弱って困っている人なんかを見ると、寄ってって抱きしめてあげたいとか思うのでエゴいよなぁ。エゴい。

でも、同居人がどうしようもなくなっていたら、それは抱きしめていい相手なんだから優しくしてあげられる。というかする所存。それも今は想像上の弱熊だからだろうか。限度というものもあって、あまりにもどろどろでぐちゃぐちゃだったら嫌になってしまう可能性。やっぱりまったくやさしくないの、わたしは。

なにかを返そうものならばそれが相手のねらいなんだから(無意識でもね)、お説教でもされたらしめたもの! って思っちゃう人がいるのでこの世には。いやだれでもそうなる可能性はあるし、甘える権利もだれにでもあるのだ。けれども。

ときどき、自分は無意識(という名の甘えの沼)に棲みついた悪い妖怪なんじゃないかと思うのだ。

ぶたれたことないのにぶったわね

★これまでのあらすじ★

靴下を人に贈るのが好きな主人公(紙)は息を吸うように靴下をプレゼントしていた。そんなある日、「もう今年の分の靴下はもらっているよ」とやんわりではあるが拒絶される。クローゼットにはまだまだ在庫があるっていうのに!!! 行き場のなくなった紙の気持ちは寿司柄のTシャツを贈ることに向かっていく――。

洗濯ものを取り込んでいたときに、薄くなった、というかむしろすでに穴の開いている靴下を発見し、ていうか履いているところも目撃しているけれど。かかとって丸いよねってあらためて気づけるほどの見事な穴を空白を。でも靴下をあげる手は禁じられているのだけど、そういえばダーニングというものがあったのであった。

google:images:ダーニング 靴下

暮しの手帖でも特集されていたこれをやってみることにして毛糸をさがす。ふふ。

 

 

くるくるとさまざまなきもちになっている。でもなーんにもおぼえておられない。職場用に手帳を買っておいていて、仕事のことを書く以外に思ったことを書いている。でも職場においてあるからやっぱり今はなーんもわからない。職場に、もっと言えばその時間に気持ちを置いてきてしまっている。記憶があやふやになってしまう年齢だからそう割り切ってしまうのもよいかも。でもほかの人には見せられないな、その手帳。