紙とくまの生活。
忘れるために書く日記。


三連休

わたしが何者でもない、ということがどうしようもなくのしかかってくる三日間。四度目の三日間。ひらきなおって明るくふるまえばいいのだということは思うけれど、そんな簡単な性格でもないんだった。善人であるだけでいいはずなのに、もっともっと要求されている、そんな気持ちにさせてるのは自分自身なのだったけど。しかしまあいろいろな"何者"があって、その中でもかなり好きな何者かたちなのだから、そういう好きな者たちになってみよう、同一化してみよう、と思うのは手持ちのカードの中では悪くないんだとも思う。わたしはそれらに、本当を感じるのだから。

バスの中で『ズートピア』を観て、わたしは映画館でも観たから二度目だったのだけど、小さな画面、何組かの親子づれと観ると、だいぶ印象が変わって、まず話がややこしいからずっと気が抜けないし、暗い場面も多いからしっかりみていないといけない。迫力も半減で、前半は主役のウサギが虐げられているばかりだから、みているのがつらい。子ども向けではないのではないかと感じた。冒頭の子ども時代の発表会の場面、わたしが自分の子どもと観ていたら親として辛いと思ってしまった。悪い話ではないと思うのだけど、明るい車中で観るには向いていない。あれだけ絶賛されたのもインターネット上でだけで、実際に生活している個人個人としてはサムいのではないだろうか、など。勝手に気をまわしているだけではあるけれど。などと書きながら、『ズートピア』、けして悪い映画だとは思っていなくて、というかわたしの気持ちの辛いところをえぐってくる感じがあって、目を潤ませながら観てしまったので、わたしにはどこかストライクだったのだと思う。それと、評論とかでああだこうだ解釈がどうだこの理論をあてはめると、っていうのやれるけど、生活体のひとつとしては、自分の人生の経験の上で処理するしかないんだと思った。その経験の内に分析理論とかが入ってる人もいて、それは評論家とかいろいろかじった人かもしれないな、とか。

2016/09/17

気づいたら各駅停車に乗っていて集合には少し遅れた。それでも出発には余裕があったから皆はそこで談笑していて問題はなかった。そのときの、たとえば朝方の些少な状況がしばらく続くことを疑えない。つまり、起きたときの気温を曇り空を(実際は日がまだ出ていないだけなのに)、その日はそのまま、はたまた数日間でも続くのではないかという誤った確信。そのために、長袖を着て、ねんのための着替えも荷物に入れて、上着も、折りたたみの傘も持って、、その結果大荷物で着いた先でお日さまが出てきたりして、あーやんなっちゃう天気予報。
柴犬の子犬、濃いめの茶色で鼻先にかけてゆるやかに黒くなっている。顔は人間の子どもにも似ていたし、お腹は内側からはっていてピンク色が透けてみえた。そいつがクゥクゥと蒲団の上で眠りだしたので、寒いよね何かかけてやろうアアまぁるくなっちゃってとか思いながら薄がけを取ってきて子犬のうえにそっとかけ、そのままわたしの蒲団もかけて、、というのが夢で目をあけると隣で同居人が小さな毛布にくるまって、胎児のように屈葬のように小さく毛布のサイズになっていたのでそこでわたしの犬に大きな蒲団をかけてやった。

自分が(もしくは〇〇が)いなくなることを考えている。希死念慮というわけではなく、単純に自分の(もしくは他の)存在が影響がなかったらこの人は(この場面は)どうなったかと考える。神の視点でも純粋な観察者でもいいが、そんなこと不可能で、思考の実験としても無意味ではないか。疑問の生じ得ないほどの基礎の基礎の関係をさがして、同時にうとましく思う。